豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、旧字体: 豐臣秀賴)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男で庶子。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。 秀頼は父秀吉の意思を継ぎ、秀吉の発願した高さ約19mもある方広寺大仏(京の大仏)及び、それを安置する大仏殿の再建を進めた。しかし同寺院に納める梵鐘の鐘銘を巡り方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)が発生し、徳川氏の江戸幕府と交戦することになった(大坂の陣)。しかしこの頃にはもはや徳川氏の優位が確立しており、世の趨勢を覆すには至らず、冬と夏の両陣を経て、大坂城が落城し秀頼は自刃。これにより豊臣氏(羽柴宗家)は滅亡した。