京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉が関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。 なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれており、やがて新城、秀頼卿御城、京の城と呼ばれた。しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった(秀吉の造立した建造物には名称が定められていないものが多々あり、例えば方広寺(京の大仏)は後世の名称で、当時の史料には単に「大仏」と記されている)。

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  • 京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉が関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。 なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれており、やがて新城、秀頼卿御城、京の城と呼ばれた。しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった(秀吉の造立した建造物には名称が定められていないものが多々あり、例えば方広寺(京の大仏)は後世の名称で、当時の史料には単に「大仏」と記されている)。 (ja)
  • 京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉が関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。 なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれており、やがて新城、秀頼卿御城、京の城と呼ばれた。しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった(秀吉の造立した建造物には名称が定められていないものが多々あり、例えば方広寺(京の大仏)は後世の名称で、当時の史料には単に「大仏」と記されている)。 (ja)
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  • 新城、秀頼卿御城、京の城、豊臣氏第 (ja)
  • 北政所屋敷、高台院屋敷、三本木屋敷 (ja)
  • 太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷 (ja)
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  • 慶長2年(1597年) (ja)
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  • 京都新城 (ja)
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  • 京都府 (ja)
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  • 寛永4年(1627年) (ja)
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  • 石垣 (ja)
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  • 京都町衆、北政所 (ja)
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  • 豊臣秀吉、豊臣秀頼、北政所、木下利房 (ja)
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  • 京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉が関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。 なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれており、やがて新城、秀頼卿御城、京の城と呼ばれた。しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった(秀吉の造立した建造物には名称が定められていないものが多々あり、例えば方広寺(京の大仏)は後世の名称で、当時の史料には単に「大仏」と記されている)。 (ja)
  • 京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉が関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。 なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、当初は太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれており、やがて新城、秀頼卿御城、京の城と呼ばれた。しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった(秀吉の造立した建造物には名称が定められていないものが多々あり、例えば方広寺(京の大仏)は後世の名称で、当時の史料には単に「大仏」と記されている)。 (ja)
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  • 京都新城 (ja)
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