京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏(毘盧遮那仏像)。兵火で焼損した東大寺大仏に代わり、その役割を継承する存在にするという豊臣秀吉の意図から発願がなされた。大仏の呼称(名前の呼ばれ方)について、桃山時代・江戸時代は単に大仏、もしくは新大仏(東大寺大仏に対して)、京の大仏、東山大仏、京東大仏、洛東大仏、方広寺大仏(方広寺の呼称は江戸時代中期以降)などと呼称されていた。愛称として「京の大仏つぁん(発音:だいぶっつぁん)」と称されることもあった。現代では京都大仏とも呼ばれる。大仏としては日本一の高さを誇っていたので、江戸時代に単に「大仏」と言えば、京の大仏のことを指していた。これは元禄5年(1692年)まで東大寺大仏の再建がなされなかったためでもある。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた (猿キャッキャッキャッ)」というわらべ歌は、寛政10年(1798年)にこの大仏が落雷で焼失したことを歌っている。 豊臣家との開戦の口実作りのため、徳川家康により方広寺の鐘銘が槍玉に挙げられ(方広寺鐘銘事件)、また造立のたびに 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。「方広寺」の記事も参照のこと。

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  • 京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏(毘盧遮那仏像)。兵火で焼損した東大寺大仏に代わり、その役割を継承する存在にするという豊臣秀吉の意図から発願がなされた。大仏の呼称(名前の呼ばれ方)について、桃山時代・江戸時代は単に大仏、もしくは新大仏(東大寺大仏に対して)、京の大仏、東山大仏、京東大仏、洛東大仏、方広寺大仏(方広寺の呼称は江戸時代中期以降)などと呼称されていた。愛称として「京の大仏つぁん(発音:だいぶっつぁん)」と称されることもあった。現代では京都大仏とも呼ばれる。大仏としては日本一の高さを誇っていたので、江戸時代に単に「大仏」と言えば、京の大仏のことを指していた。これは元禄5年(1692年)まで東大寺大仏の再建がなされなかったためでもある。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた (猿キャッキャッキャッ)」というわらべ歌は、寛政10年(1798年)にこの大仏が落雷で焼失したことを歌っている。 豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ (14.7m) を上回り、先述のように大仏としては日本一の高さを誇っていた(比較として、近現代に建てられた大仏で、かつての方広寺初代~3代目大仏の像高に近いものとしては聚楽園大仏・越前大仏・但馬大仏などがある)。そのため江戸時代に、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた。大田南畝著とされる『半日閑話(街談録)』には3代目大仏が落雷で焼失した時について「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也」とあり、3代目大仏の焼失は京都民衆に大変惜しまれた。3代目大仏の焼失後に規模が縮小されつつも再建された、江戸時代後期に造立の4代目大仏は、1973年(昭和48年)まで存続していたが、失火により焼失し、ついに方広寺大仏は京都から姿を消した。 豊臣家との開戦の口実作りのため、徳川家康により方広寺の鐘銘が槍玉に挙げられ(方広寺鐘銘事件)、また造立のたびに * 地震(文禄5年〈1596年〉の慶長伏見地震、寛文2年〈1662年〉の寛文近江・若狭地震) * 雷(寛政10年の落雷) * 火事(寛政10年の落雷による火災、昭和48年の失火による火災) の被害に見舞われ、損壊(滅失)を繰り返したことから、「悲劇の大仏」として紹介されることもある。日本では恐ろしいもののたとえとして、地震・雷・火事・親父を挙げられることがあるが、京都ではかつてその全ての災難を受けた存在として、京の大仏が引き合いに出されることもあったという(ここでの「親父」は、方広寺鐘銘事件を引き起こし、「狸親父」と渾名された徳川家康を指す)。 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。「方広寺」の記事も参照のこと。 なお「方広寺」という寺号は創建当時から江戸時代初期にかけての文献には一切現れない。方広寺大仏を発願した豊臣秀吉により正式な寺号が定められることはなかったが、先述のように方広寺大仏は兵火で焼損した東大寺大仏に代わり、その役割を継承する存在にするという秀吉の意図から発願がなされ、豊臣秀頼の代には「方広寺(当時その寺号はない)」を「東大寺」にする(方広寺を東大寺の継承寺院とする)ことが企図され、朝廷とも協議がなされていたので、寺号が「東大寺」と定められる可能性があった(この件は豊臣氏の滅亡で立ち消えとなった)。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)もしくは方広会から採ったといわれ、またそれらにかこつけて豊臣秀吉の尊称「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。 豊臣秀吉としては方広寺及び方広寺大仏のことを単に「大仏(殿)」と公称していた(事実上 寺の名は「大仏(殿)」であった)。これは方広寺大仏のほかに大仏と称せる像は日本にはないとする秀吉の自負の表れと考えられている。(なお秀吉の造立した建造物には京都新城のように正式名称が定められていないものが多々ある。)方広寺の寺号が生じてからも上記の経緯から、「大仏殿」を語頭に冠し「大仏殿方広寺」と称されることが多かった。昭和48年(1973年)の4代目大仏焼失以前に方広寺が配布していた拝観者用パンフレットの題名も「大仏殿方広寺拝観の栞」と表記されている。 上記の歴史的背景を踏まえて、「方広寺鐘銘事件」は「京都大仏鐘銘事件」と表記されることもある。 (ja)
  • 京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏(毘盧遮那仏像)。兵火で焼損した東大寺大仏に代わり、その役割を継承する存在にするという豊臣秀吉の意図から発願がなされた。大仏の呼称(名前の呼ばれ方)について、桃山時代・江戸時代は単に大仏、もしくは新大仏(東大寺大仏に対して)、京の大仏、東山大仏、京東大仏、洛東大仏、方広寺大仏(方広寺の呼称は江戸時代中期以降)などと呼称されていた。愛称として「京の大仏つぁん(発音:だいぶっつぁん)」と称されることもあった。現代では京都大仏とも呼ばれる。大仏としては日本一の高さを誇っていたので、江戸時代に単に「大仏」と言えば、京の大仏のことを指していた。これは元禄5年(1692年)まで東大寺大仏の再建がなされなかったためでもある。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた (猿キャッキャッキャッ)」というわらべ歌は、寛政10年(1798年)にこの大仏が落雷で焼失したことを歌っている。 豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録(愚子見記、都名所図会等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ (14.7m) を上回り、先述のように大仏としては日本一の高さを誇っていた(比較として、近現代に建てられた大仏で、かつての方広寺初代~3代目大仏の像高に近いものとしては聚楽園大仏・越前大仏・但馬大仏などがある)。そのため江戸時代に、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた。大田南畝著とされる『半日閑話(街談録)』には3代目大仏が落雷で焼失した時について「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也」とあり、3代目大仏の焼失は京都民衆に大変惜しまれた。3代目大仏の焼失後に規模が縮小されつつも再建された、江戸時代後期に造立の4代目大仏は、1973年(昭和48年)まで存続していたが、失火により焼失し、ついに方広寺大仏は京都から姿を消した。 豊臣家との開戦の口実作りのため、徳川家康により方広寺の鐘銘が槍玉に挙げられ(方広寺鐘銘事件)、また造立のたびに * 地震(文禄5年〈1596年〉の慶長伏見地震、寛文2年〈1662年〉の寛文近江・若狭地震) * 雷(寛政10年の落雷) * 火事(寛政10年の落雷による火災、昭和48年の失火による火災) の被害に見舞われ、損壊(滅失)を繰り返したことから、「悲劇の大仏」として紹介されることもある。日本では恐ろしいもののたとえとして、地震・雷・火事・親父を挙げられることがあるが、京都ではかつてその全ての災難を受けた存在として、京の大仏が引き合いに出されることもあったという(ここでの「親父」は、方広寺鐘銘事件を引き起こし、「狸親父」と渾名された徳川家康を指す)。 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。「方広寺」の記事も参照のこと。 なお「方広寺」という寺号は創建当時から江戸時代初期にかけての文献には一切現れない。方広寺大仏を発願した豊臣秀吉により正式な寺号が定められることはなかったが、先述のように方広寺大仏は兵火で焼損した東大寺大仏に代わり、その役割を継承する存在にするという秀吉の意図から発願がなされ、豊臣秀頼の代には「方広寺(当時その寺号はない)」を「東大寺」にする(方広寺を東大寺の継承寺院とする)ことが企図され、朝廷とも協議がなされていたので、寺号が「東大寺」と定められる可能性があった(この件は豊臣氏の滅亡で立ち消えとなった)。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)もしくは方広会から採ったといわれ、またそれらにかこつけて豊臣秀吉の尊称「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。 豊臣秀吉としては方広寺及び方広寺大仏のことを単に「大仏(殿)」と公称していた(事実上 寺の名は「大仏(殿)」であった)。これは方広寺大仏のほかに大仏と称せる像は日本にはないとする秀吉の自負の表れと考えられている。(なお秀吉の造立した建造物には京都新城のように正式名称が定められていないものが多々ある。)方広寺の寺号が生じてからも上記の経緯から、「大仏殿」を語頭に冠し「大仏殿方広寺」と称されることが多かった。昭和48年(1973年)の4代目大仏焼失以前に方広寺が配布していた拝観者用パンフレットの題名も「大仏殿方広寺拝観の栞」と表記されている。 上記の歴史的背景を踏まえて、「方広寺鐘銘事件」は「京都大仏鐘銘事件」と表記されることもある。 (ja)
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  • 京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏(毘盧遮那仏像)。兵火で焼損した東大寺大仏に代わり、その役割を継承する存在にするという豊臣秀吉の意図から発願がなされた。大仏の呼称(名前の呼ばれ方)について、桃山時代・江戸時代は単に大仏、もしくは新大仏(東大寺大仏に対して)、京の大仏、東山大仏、京東大仏、洛東大仏、方広寺大仏(方広寺の呼称は江戸時代中期以降)などと呼称されていた。愛称として「京の大仏つぁん(発音:だいぶっつぁん)」と称されることもあった。現代では京都大仏とも呼ばれる。大仏としては日本一の高さを誇っていたので、江戸時代に単に「大仏」と言えば、京の大仏のことを指していた。これは元禄5年(1692年)まで東大寺大仏の再建がなされなかったためでもある。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた (猿キャッキャッキャッ)」というわらべ歌は、寛政10年(1798年)にこの大仏が落雷で焼失したことを歌っている。 豊臣家との開戦の口実作りのため、徳川家康により方広寺の鐘銘が槍玉に挙げられ(方広寺鐘銘事件)、また造立のたびに 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。「方広寺」の記事も参照のこと。 (ja)
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