堀内 氏久(ほりうち うじひさ、文禄4年(1595年) - 明暦3年8月20日(1657年9月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。初名は氏定(うじさだ)。通称は主水。堀内氏善の子。母は九鬼嘉隆の養女。妻は長谷川氏。兄に新宮行朝がいる(叔父との説あり)。子は、、。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦い、戦後に父が改易されたため、紀伊国和歌山に入封した浅野幸長に仕えた。慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では豊臣秀頼の招きに応じ、兄の行朝と共に大坂城に籠城した。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月7日の大坂城落城に際し、南部左門や刑部卿局らと共に豊臣秀頼の正室・千姫を護衛して徳川方の坂崎直盛の陣に届け、そのまま直盛に従って千姫を徳川家康の本陣まで送り届けた。この時家康に拝謁し、戦後はこの功により下総国内に500石を与えられ、徳川秀忠の旗本として召抱えられた。また、氏久の功により兄の行朝も赦されている。大番、次いで二条城の守衛を務めていたが、在任中の明暦3年(1657年)8月20日に63歳で死去した。法名は理円。墓所は京都府京都市北区の天寧寺。跡は長男の氏衡が継いだ。

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  • 堀内 氏久(ほりうち うじひさ、文禄4年(1595年) - 明暦3年8月20日(1657年9月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。初名は氏定(うじさだ)。通称は主水。堀内氏善の子。母は九鬼嘉隆の養女。妻は長谷川氏。兄に新宮行朝がいる(叔父との説あり)。子は、、。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦い、戦後に父が改易されたため、紀伊国和歌山に入封した浅野幸長に仕えた。慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では豊臣秀頼の招きに応じ、兄の行朝と共に大坂城に籠城した。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月7日の大坂城落城に際し、南部左門や刑部卿局らと共に豊臣秀頼の正室・千姫を護衛して徳川方の坂崎直盛の陣に届け、そのまま直盛に従って千姫を徳川家康の本陣まで送り届けた。この時家康に拝謁し、戦後はこの功により下総国内に500石を与えられ、徳川秀忠の旗本として召抱えられた。また、氏久の功により兄の行朝も赦されている。大番、次いで二条城の守衛を務めていたが、在任中の明暦3年(1657年)8月20日に63歳で死去した。法名は理円。墓所は京都府京都市北区の天寧寺。跡は長男の氏衡が継いだ。 (ja)
  • 堀内 氏久(ほりうち うじひさ、文禄4年(1595年) - 明暦3年8月20日(1657年9月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。初名は氏定(うじさだ)。通称は主水。堀内氏善の子。母は九鬼嘉隆の養女。妻は長谷川氏。兄に新宮行朝がいる(叔父との説あり)。子は、、。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦い、戦後に父が改易されたため、紀伊国和歌山に入封した浅野幸長に仕えた。慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では豊臣秀頼の招きに応じ、兄の行朝と共に大坂城に籠城した。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月7日の大坂城落城に際し、南部左門や刑部卿局らと共に豊臣秀頼の正室・千姫を護衛して徳川方の坂崎直盛の陣に届け、そのまま直盛に従って千姫を徳川家康の本陣まで送り届けた。この時家康に拝謁し、戦後はこの功により下総国内に500石を与えられ、徳川秀忠の旗本として召抱えられた。また、氏久の功により兄の行朝も赦されている。大番、次いで二条城の守衛を務めていたが、在任中の明暦3年(1657年)8月20日に63歳で死去した。法名は理円。墓所は京都府京都市北区の天寧寺。跡は長男の氏衡が継いだ。 (ja)
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  • 堀内 氏久(ほりうち うじひさ、文禄4年(1595年) - 明暦3年8月20日(1657年9月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。初名は氏定(うじさだ)。通称は主水。堀内氏善の子。母は九鬼嘉隆の養女。妻は長谷川氏。兄に新宮行朝がいる(叔父との説あり)。子は、、。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦い、戦後に父が改易されたため、紀伊国和歌山に入封した浅野幸長に仕えた。慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では豊臣秀頼の招きに応じ、兄の行朝と共に大坂城に籠城した。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月7日の大坂城落城に際し、南部左門や刑部卿局らと共に豊臣秀頼の正室・千姫を護衛して徳川方の坂崎直盛の陣に届け、そのまま直盛に従って千姫を徳川家康の本陣まで送り届けた。この時家康に拝謁し、戦後はこの功により下総国内に500石を与えられ、徳川秀忠の旗本として召抱えられた。また、氏久の功により兄の行朝も赦されている。大番、次いで二条城の守衛を務めていたが、在任中の明暦3年(1657年)8月20日に63歳で死去した。法名は理円。墓所は京都府京都市北区の天寧寺。跡は長男の氏衡が継いだ。 (ja)
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