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- 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称についてはを参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。 日本の天下統一を果たした天下人・豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった。 双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本側の諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝にはの原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。 (ja)
- 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称についてはを参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。 日本の天下統一を果たした天下人・豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都・漢城を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった。 双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本側の諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝にはの原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。 (ja)
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- 蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵) (ja)
- 文禄の役『釜山鎮殉節図』。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 (ja)
- 蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵) (ja)
- 文禄の役『釜山鎮殉節図』。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 (ja)
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- 小西行長と沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。
- 豊臣秀吉死去で日本側の全軍が帰国して終結。講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。((「柳川一件」も参照))
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- 日本軍
- (諸説あり)
- 158,700人(毛利家文書による通説。総勢は[[#日本軍陣立
- 141,500人(奴婢を中心とした朝鮮の民も含む)
- 48,000人
- 84,500人–192,000人
- 明軍:
- 明軍:75,000–92,100(三路の戦い時)
- 朝鮮軍
- 義兵軍:22,400人
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- 景福宮 (ja)
- 東闕圖 (ja)
- 景福宮 (ja)
- 東闕圖 (ja)
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- 慶長の役 (ja)
- 文禄の役 (ja)
- 慶長の役 (ja)
- 文禄の役 (ja)
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- 慶長の役 (ja)
- 文禄の役 (ja)
- 慶長の役 (ja)
- 文禄の役 (ja)
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- 朝鮮国王の住まいであった景福宮の街並みを描いた想像復元図。宣祖一行の逃亡と同時に起こった朝鮮民衆の蜂起によって放火掠奪され、以後景福宮は約270年の間、再建されなかった。 (ja)
- 蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵) (ja)
- 『東闕圖』(韓国国宝第249号), 景福宮から見て東側にあった昌慶宮と昌徳宮を描いたもの。これらも同様に日本軍入城前に焼失した。焼失前の姿を写す史料は存在せず、これは純祖の時代に何度目かの復元で戻った両宮の姿。 (ja)
- 文禄の役『釜山鎮殉節図』。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 (ja)
- 朝鮮国王の住まいであった景福宮の街並みを描いた想像復元図。宣祖一行の逃亡と同時に起こった朝鮮民衆の蜂起によって放火掠奪され、以後景福宮は約270年の間、再建されなかった。 (ja)
- 蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵) (ja)
- 『東闕圖』(韓国国宝第249号), 景福宮から見て東側にあった昌慶宮と昌徳宮を描いたもの。これらも同様に日本軍入城前に焼失した。焼失前の姿を写す史料は存在せず、これは純祖の時代に何度目かの復元で戻った両宮の姿。 (ja)
- 文禄の役『釜山鎮殉節図』。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 (ja)
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- 日本に連行された捕虜・奴隷 2万人~10万人以上 (ja)
- *鄭撥、尹興信、宋象賢などが戦死 (ja)
- 少なくとも約21,900人以上((病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む))
一説に約50,000人(大半が病死・餓死。)
*中川秀政が戦闘中以外で討死 (ja)
- ~36,000人 (ja)
- 不明
諸説あり (ja)
- 数十万(文禄・慶長両役の総計) (ja)
- 日本に連行された捕虜・奴隷 2万人~10万人以上 (ja)
- *鄭撥、尹興信、宋象賢などが戦死 (ja)
- 少なくとも約21,900人以上((病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む))
一説に約50,000人(大半が病死・餓死。)
*中川秀政が戦闘中以外で討死 (ja)
- ~36,000人 (ja)
- 不明
諸説あり (ja)
- 数十万(文禄・慶長両役の総計) (ja)
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- dbpedia-ja:楊鎬
- dbpedia-ja:都察院
- dbpedia-ja:万世徳
- 小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島玄雅
;三番隊
黒田長政、毛利勝信・毛利勝永、島津忠豊、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、相良長毎
;四番隊
鍋島直茂・鍋島勝茂
;五番隊
島津義弘
;六番隊
長宗我部元親、藤堂高虎、池田秀氏、加藤嘉明、来島通総、中川秀成、菅達長
;七番隊
蜂須賀家政、生駒一正、脇坂安治
;八番および九番隊
毛利秀元、宇喜多秀家
;在番衆
ほか (ja)
- 総大将 宇喜多秀家
;一番隊
宗義智、小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄
;二番隊
加藤清正、鍋島直茂、相良長毎
;三番隊
黒田長政、大友吉統
;四番隊
毛利勝信(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊
;五番隊
福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之(得居通幸)、来島通総
;六番隊
小早川隆景、毛利秀包、立花鎮虎(宗茂)、高橋統増、筑紫広門、毛利輝元
;七番隊
宇喜多秀家ほか
;八番隊
浅野幸長、中川秀政、宮部長煕ほか
;九番隊
豊臣秀勝、細川忠興、長谷川秀一、木村重茲ほか
;水軍
九鬼嘉隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、亀井茲矩、菅達長、桑山一晴、桑山貞晴、堀内氏善、杉若氏宗 (ja)
- 三道水軍統制使李舜臣→元均→李舜臣 (ja)
- 総大将小早川秀秋
;一番および二番隊
加藤清正 (ja)
- 全羅右水使李億祺 (ja)
- 兵部右侍郎宋応昌→顧養謙 (ja)
- 兵部左侍郎邢玠 (ja)
- 副総兵鄧子龍 (ja)
- 副総兵陳蠶 (ja)
- 左協軍大将李如梅 (ja)
- 提督麻貴 (ja)
- 明軍
兵部尚書石星 (ja)
- 明軍
兵部尚書邢玠(総督) (ja)
- 朝鮮軍 (ja)
- 水帥陳璘 (ja)
- 禦倭総兵官劉綎 (ja)
- 禦倭総兵官董一元 (ja)
- 義兵大将郭再祐 (ja)
- 都元帥権慄 (ja)
- 防海禦倭総兵官(提督)李如松 (ja)
- 副総兵(遼東軍)祖承訓
参将劉綎
;朝鮮軍([[#朝鮮の軍組織 (ja)
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- 慶長の役 (ja)
- 文禄の役 (ja)
- 慶長の役 (ja)
- 文禄の役 (ja)
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- vertical (ja)
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- 壬辰倭亂 (ja)
- 壬辰戰爭 (ja)
- 壬辰倭亂 (ja)
- 壬辰戰爭 (ja)
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- Donggwol-do.jpg (ja)
- Donggwol-do.jpg (ja)
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- 임진왜란 (ja)
- 임진전쟁 (ja)
- 임진왜란 (ja)
- 임진전쟁 (ja)
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- (諸説あり)
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- 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称についてはを参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。 双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本側の諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝にはの原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。 (ja)
- 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称についてはを参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。 双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本側の諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝にはの原因となる深刻な財政難を残した。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。 (ja)
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