律令制(りつりょうせい)とは、日本で中国唐朝の律令を取り入れ法体系を整備し、それに基づいた国家制度・統治制度を指す。7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関しては制度にほぼ忠実に従った国家運営が行われた(律令国家・律令体制・律令時代)。 制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現への取り組みがあった。また白村江の戦い(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付けを目指したとも考えられている。ただし全面的な官僚制は採用せず、伝統に基づく氏族制を重んじ併用するなどの独自の特徴がある。 またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。 しかし開始後約100年のうちに、現実上の日本の経済制度としては負担が重く実効性が薄く、必要以上の国家軍事力を維持するなどと判断されたため、平安初期に大きく修正された。その後、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占めるに伴い、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。

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  • 律令制(りつりょうせい)とは、日本で中国唐朝の律令を取り入れ法体系を整備し、それに基づいた国家制度・統治制度を指す。7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関しては制度にほぼ忠実に従った国家運営が行われた(律令国家・律令体制・律令時代)。 制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現への取り組みがあった。また白村江の戦い(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付けを目指したとも考えられている。ただし全面的な官僚制は採用せず、伝統に基づく氏族制を重んじ併用するなどの独自の特徴がある。 またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。 しかし開始後約100年のうちに、現実上の日本の経済制度としては負担が重く実効性が薄く、必要以上の国家軍事力を維持するなどと判断されたため、平安初期に大きく修正された。その後、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占めるに伴い、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。 (ja)
  • 律令制(りつりょうせい)とは、日本で中国唐朝の律令を取り入れ法体系を整備し、それに基づいた国家制度・統治制度を指す。7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関しては制度にほぼ忠実に従った国家運営が行われた(律令国家・律令体制・律令時代)。 制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現への取り組みがあった。また白村江の戦い(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付けを目指したとも考えられている。ただし全面的な官僚制は採用せず、伝統に基づく氏族制を重んじ併用するなどの独自の特徴がある。 またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。 しかし開始後約100年のうちに、現実上の日本の経済制度としては負担が重く実効性が薄く、必要以上の国家軍事力を維持するなどと判断されたため、平安初期に大きく修正された。その後、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占めるに伴い、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。 (ja)
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  • 律令制(りつりょうせい)とは、日本で中国唐朝の律令を取り入れ法体系を整備し、それに基づいた国家制度・統治制度を指す。7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関しては制度にほぼ忠実に従った国家運営が行われた(律令国家・律令体制・律令時代)。 制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現への取り組みがあった。また白村江の戦い(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付けを目指したとも考えられている。ただし全面的な官僚制は採用せず、伝統に基づく氏族制を重んじ併用するなどの独自の特徴がある。 またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。 しかし開始後約100年のうちに、現実上の日本の経済制度としては負担が重く実効性が薄く、必要以上の国家軍事力を維持するなどと判断されたため、平安初期に大きく修正された。その後、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占めるに伴い、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。 (ja)
  • 律令制(りつりょうせい)とは、日本で中国唐朝の律令を取り入れ法体系を整備し、それに基づいた国家制度・統治制度を指す。7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関しては制度にほぼ忠実に従った国家運営が行われた(律令国家・律令体制・律令時代)。 制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現への取り組みがあった。また白村江の戦い(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付けを目指したとも考えられている。ただし全面的な官僚制は採用せず、伝統に基づく氏族制を重んじ併用するなどの独自の特徴がある。 またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。 しかし開始後約100年のうちに、現実上の日本の経済制度としては負担が重く実効性が薄く、必要以上の国家軍事力を維持するなどと判断されたため、平安初期に大きく修正された。その後、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占めるに伴い、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。 (ja)
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  • 律令制 (ja)
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