楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立し没後の元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一へと結実させた。

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  • 楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立し没後の元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一へと結実させた。 (ja)
  • 楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立し没後の元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一へと結実させた。 (ja)
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  • 通称:楠木判官正儀(『後愚昧記』)、伝・次郎左衛門(『太平記』流布本31巻) (ja)
  • 伝・正巌孝儀大居士(『如意輪寺旧記』) (ja)
  • (虎夜刃丸(とらやしゃまる、幼名)?→)正儀 (ja)
  • 伝・小光寺秀芳義瑞大居士(『河内名所図会』) (ja)
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  • 通称:楠木判官正儀(『後愚昧記』)、伝・次郎左衛門(『太平記』流布本31巻) (ja)
  • 通称:楠木判官正儀(『後愚昧記』)、伝・次郎左衛門(『太平記』流布本31巻) (ja)
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  • 伝・大阪府千早赤阪村(『河内名所図会』) (ja)
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  • 正室:不明(伝・伊賀局(篠塚重広の娘)) (ja)
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  • 正勝、正元、正秀、正平? (ja)
  • 正勝、正元、正秀、正平? (ja)
prop-en:官位
  • 南朝:左衛門少尉、左馬権頭、河内守、大夫判官(五位検非違使尉)、和泉守護、左馬頭、右兵衛督、左兵衛督 (ja)
  • 北朝:左兵衛督、散位、中務大輔 (ja)
  • 南朝(帰参後):左兵衛督、参議 (ja)
  • 南朝:左衛門少尉、左馬権頭、河内守、大夫判官(五位検非違使尉)、和泉守護、左馬頭、右兵衛督、左兵衛督 (ja)
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prop-en:幕府
  • 室町幕府河内・和泉・摂津住吉郡守護職 (ja)
  • 室町幕府河内・和泉・摂津住吉郡守護職 (ja)
prop-en:戒名
  • 伝・正巌孝儀大居士(『如意輪寺旧記』) (ja)
  • 伝・小光寺秀芳義瑞大居士(『河内名所図会』) (ja)
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  • 伝・小光寺秀芳義瑞大居士(『河内名所図会』) (ja)
prop-en:改名
  • (虎夜刃丸(とらやしゃまる、幼名)?→)正儀 (ja)
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prop-en:時代
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  • 元中5年/嘉慶2年(1388年)もしくは元中6年/康応元年(1389年)ごろ (ja)
  • 元中5年/嘉慶2年(1388年)もしくは元中6年/康応元年(1389年)ごろ (ja)
prop-en:氏名
  • 楠木 正儀 (ja)
  • 楠木 正儀 (ja)
prop-en:氏族
prop-en:父母
  • 父:楠木正成、母:不明 (ja)
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prop-en:生誕
  • 不明(推測:元弘3年/正慶2年(1333年)?) (ja)
  • 『太平記』天正本:元弘元年/元徳3年(1331年) (ja)
  • 『太平記』流布本:元徳2年(1330年) (ja)
  • 不明(推測:元弘3年/正慶2年(1333年)?) (ja)
  • 『太平記』天正本:元弘元年/元徳3年(1331年) (ja)
  • 『太平記』流布本:元徳2年(1330年) (ja)
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  • Kusunoki Masanori, from Meiyo Sanjûroku Kassen.jpg (ja)
  • Kusunoki Masanori, from Meiyo Sanjûroku Kassen.jpg (ja)
prop-en:画像説明
  • 『名誉三十六合戦』より『楠正儀』、歌川国芳。当世第一の名将として、当時新しい武器の鑓(槍)を自ら振るう正儀。なお、画中の場面は康暦2年(1380年)南朝総大将たる活躍としているが、史実ではこのとき北朝方。 (ja)
  • 『名誉三十六合戦』より『楠正儀』、歌川国芳。当世第一の名将として、当時新しい武器の鑓(槍)を自ら振るう正儀。なお、画中の場面は康暦2年(1380年)南朝総大将たる活躍としているが、史実ではこのとき北朝方。 (ja)
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  • 楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立し没後の元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一へと結実させた。 (ja)
  • 楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進、399年ぶりの橘氏公卿として和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立し没後の元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一へと結実させた。 (ja)
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  • 楠木正儀 (ja)
  • 楠木正儀 (ja)
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  • 楠木 正儀 (ja)
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