東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。 陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。 第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。しかし、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった。 内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり、1947年(昭和22年)に臣籍降下した。1950年(昭和25年)には新興宗教「」を立ち上げて一時教祖となった。しかし手がけた事業はことごとく失敗した。 歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。千葉工業大学の創設に当たってはその発案者となった人物。 香淳皇后は姪、第125代天皇・明仁(上皇)は従孫に当たる。