和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。和田義盛の乱とも呼ばれている。 建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見(泉親衡の乱)、その折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。その後、息子2人は配慮され赦免になる。義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請したが、胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪になる。さらにその後、元の胤長の屋敷が没収される。これらの件で両者の関係は悪化する。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は5月、姻戚関係にあった横山党や同族(従弟)の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田氏一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。合戦は2日間にわたり続くが、将軍源実朝を擁し兵力で勝る義時が圧倒、義盛は敗死し、和田一族は滅亡した。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。

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  • 和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。和田義盛の乱とも呼ばれている。 建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見(泉親衡の乱)、その折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。その後、息子2人は配慮され赦免になる。義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請したが、胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪になる。さらにその後、元の胤長の屋敷が没収される。これらの件で両者の関係は悪化する。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は5月、姻戚関係にあった横山党や同族(従弟)の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田氏一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。合戦は2日間にわたり続くが、将軍源実朝を擁し兵力で勝る義時が圧倒、義盛は敗死し、和田一族は滅亡した。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。 (ja)
  • 和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。和田義盛の乱とも呼ばれている。 建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見(泉親衡の乱)、その折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。その後、息子2人は配慮され赦免になる。義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請したが、胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪になる。さらにその後、元の胤長の屋敷が没収される。これらの件で両者の関係は悪化する。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は5月、姻戚関係にあった横山党や同族(従弟)の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田氏一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。合戦は2日間にわたり続くが、将軍源実朝を擁し兵力で勝る義時が圧倒、義盛は敗死し、和田一族は滅亡した。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。 (ja)
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  • 北条氏、三浦氏、足利氏、千葉氏など
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  • 『和田合戦図』(二代目歌川豊国画) (ja)
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  • 『和田合戦図』(二代目歌川豊国画) (ja)
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  • 負傷者188名 (ja)
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  • 和田氏、横山党、土屋氏など (ja)
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  • 和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。和田義盛の乱とも呼ばれている。 建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見(泉親衡の乱)、その折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。その後、息子2人は配慮され赦免になる。義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請したが、胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪になる。さらにその後、元の胤長の屋敷が没収される。これらの件で両者の関係は悪化する。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は5月、姻戚関係にあった横山党や同族(従弟)の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田氏一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。合戦は2日間にわたり続くが、将軍源実朝を擁し兵力で勝る義時が圧倒、義盛は敗死し、和田一族は滅亡した。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。 (ja)
  • 和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。和田義盛の乱とも呼ばれている。 建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見(泉親衡の乱)、その折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。その後、息子2人は配慮され赦免になる。義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請したが、胤長は首謀者格と同等のため許されず流罪になる。さらにその後、元の胤長の屋敷が没収される。これらの件で両者の関係は悪化する。 鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は5月、姻戚関係にあった横山党や同族(従弟)の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で義村は御所側へ付き、兵力不足のまま和田氏一族は将軍御所を襲撃、鎌倉で市街戦を展開した。合戦は2日間にわたり続くが、将軍源実朝を擁し兵力で勝る義時が圧倒、義盛は敗死し、和田一族は滅亡した。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。 (ja)
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  • 和田合戦 (ja)
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