パーミャチ・アゾーヴァ(ロシア語: «Па́мять Азо́ва»)は、ロシア帝国が建造し保有した装甲巡洋艦である。日本では大津事件の際のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝ニコライ2世)のとして知られ、ソビエト連邦(以下、ソ連)ではバルト艦隊最初の「革命艦」として知られた。 ロシア帝国海軍での配備当初のはフリゲート(фрегатъ)または装甲フリゲート(броненосный фрегатъ)であったが、同海軍でフリゲートとして配備された艦としてはこれが最後であった。その後、1892年2月1日付けで (крейсеръ I ранга)、1907年9月27日付けで練習船(учебное судно)に類別を変更された。その後、、さらにへ所有者が変わった。1919年5月8日付けで(плавучая база)に類別を変更された。 艦名は、ロシア語で「アゾーフの記憶」という意味であるが、この名はギリシャ独立戦争の際、1827年10月8日に発生したナヴァリノの海戦で英雄的に戦ったことが賞賛された戦列艦「」に敬意を表したものである。関係者のあいだではもっぱら「アゾーフ」(«Азо́въ»)と通称された。伝統に則り、戦列艦「アゾーフ」から代々受け継いだを受領し、舳先にはを取り付けていた。ゲオルギイ十字を持つ、ロシア史上初の蒸気装甲軍艦である。

Property Value
dbo:abstract
  • パーミャチ・アゾーヴァ(ロシア語: «Па́мять Азо́ва»)は、ロシア帝国が建造し保有した装甲巡洋艦である。日本では大津事件の際のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝ニコライ2世)のとして知られ、ソビエト連邦(以下、ソ連)ではバルト艦隊最初の「革命艦」として知られた。 ロシア帝国海軍での配備当初のはフリゲート(фрегатъ)または装甲フリゲート(броненосный фрегатъ)であったが、同海軍でフリゲートとして配備された艦としてはこれが最後であった。その後、1892年2月1日付けで (крейсеръ I ранга)、1907年9月27日付けで練習船(учебное судно)に類別を変更された。その後、、さらにへ所有者が変わった。1919年5月8日付けで(плавучая база)に類別を変更された。 艦名は、ロシア語で「アゾーフの記憶」という意味であるが、この名はギリシャ独立戦争の際、1827年10月8日に発生したナヴァリノの海戦で英雄的に戦ったことが賞賛された戦列艦「」に敬意を表したものである。関係者のあいだではもっぱら「アゾーフ」(«Азо́въ»)と通称された。伝統に則り、戦列艦「アゾーフ」から代々受け継いだを受領し、舳先にはを取り付けていた。ゲオルギイ十字を持つ、ロシア史上初の蒸気装甲軍艦である。 ではなかったがならびに船内設備が優れていたので、前述の皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチのお召し艦として使用された。これに関連し、乗員は近衛に列せられている。 後世、「パーミャチ・アゾーヴァ」の名はふたつの事件で知られている。ひとつは、1906年にこの艦上で発生した水兵らを中心とした叛乱事件である。この事件により艦は「バルト海の『ポチョムキン』」(Балти́йский «Потёмкин»)と渾名され、ソ連時代に「革命艦」として広く知られるようになった。もうひとつは、この艦の最期である。当時すでに第一線を退いて港に繋留される浮き基地となっていた「パーミャチ・アゾーヴァ」は、ロシア内戦中の1919年8月19日にイギリス海軍の魚雷艇による奇襲攻撃を受け着底、魚雷艇によって犠牲となった当時としては珍しい艦として歴史に名を留めた。 (ja)
  • パーミャチ・アゾーヴァ(ロシア語: «Па́мять Азо́ва»)は、ロシア帝国が建造し保有した装甲巡洋艦である。日本では大津事件の際のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝ニコライ2世)のとして知られ、ソビエト連邦(以下、ソ連)ではバルト艦隊最初の「革命艦」として知られた。 ロシア帝国海軍での配備当初のはフリゲート(фрегатъ)または装甲フリゲート(броненосный фрегатъ)であったが、同海軍でフリゲートとして配備された艦としてはこれが最後であった。その後、1892年2月1日付けで (крейсеръ I ранга)、1907年9月27日付けで練習船(учебное судно)に類別を変更された。その後、、さらにへ所有者が変わった。1919年5月8日付けで(плавучая база)に類別を変更された。 艦名は、ロシア語で「アゾーフの記憶」という意味であるが、この名はギリシャ独立戦争の際、1827年10月8日に発生したナヴァリノの海戦で英雄的に戦ったことが賞賛された戦列艦「」に敬意を表したものである。関係者のあいだではもっぱら「アゾーフ」(«Азо́въ»)と通称された。伝統に則り、戦列艦「アゾーフ」から代々受け継いだを受領し、舳先にはを取り付けていた。ゲオルギイ十字を持つ、ロシア史上初の蒸気装甲軍艦である。 ではなかったがならびに船内設備が優れていたので、前述の皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチのお召し艦として使用された。これに関連し、乗員は近衛に列せられている。 後世、「パーミャチ・アゾーヴァ」の名はふたつの事件で知られている。ひとつは、1906年にこの艦上で発生した水兵らを中心とした叛乱事件である。この事件により艦は「バルト海の『ポチョムキン』」(Балти́йский «Потёмкин»)と渾名され、ソ連時代に「革命艦」として広く知られるようになった。もうひとつは、この艦の最期である。当時すでに第一線を退いて港に繋留される浮き基地となっていた「パーミャチ・アゾーヴァ」は、ロシア内戦中の1919年8月19日にイギリス海軍の魚雷艇による奇襲攻撃を受け着底、魚雷艇によって犠牲となった当時としては珍しい艦として歴史に名を留めた。 (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 2256602 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 81509 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 91113103 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:align
  • left (ja)
  • left (ja)
prop-ja:alt
  • 35 (xsd:integer)
  • 1877 (xsd:integer)
  • 1917 (xsd:integer)
  • オチキス式 20 口径 37 mm 5 砲身砲。 (ja)
  • オチキス式 43 口径 47 mm 砲。 (ja)
  • 主砲スポンソン。 (ja)
prop-ja:caption
  • 1917 (xsd:integer)
  • 「パーミャチ・アゾーヴァ」の搭載した1877年式 35 口径 6 dm カノン砲と同型の要塞砲。元は艦載砲であり、近代化改修の際に陸に上げられスオメンリンナの要塞で再利用された。 (ja)
  • 「パーミャチ・アゾーヴァ」の主砲、 35 口径 8 dm カノン砲と同型の砲。船の科学館に展示される「ナヒーモフ提督」の主砲。 (ja)
  • 燃料の石炭を積み込んでいる「パーミャチ・アゾーヴァ」。 2 隻の短艇の上に見える張り出し部分に、主砲の 8 dm 砲が設置されている。 (ja)
  • 「パーミャチ・アゾーヴァ」に搭載されたのと同型のオチキス式 20 口径 37 mm 5 砲身砲。 (ja)
  • 「パーミャチ・アゾーヴァ」に搭載されたのと同型の砲座を用いたオチキス式 43 口径 47 mm 砲。 (ja)
prop-ja:direction
  • vertical (ja)
  • vertical (ja)
prop-ja:image
  • ナヒーモフ.jpg (ja)
  • Canon_de_47mm.jpg (ja)
  • Hotchkiss canon revolver before 1923.jpg (ja)
  • Pamyat'Azova1886-1907f.jpg (ja)
  • Pamyat'Azova1917Kronstadt1.jpg (ja)
  • Pamyat'Azova1917Kronstadt2.jpg (ja)
  • Suomenlinna_gun_2.jpg (ja)
  • ナヒーモフ.jpg (ja)
  • Canon_de_47mm.jpg (ja)
  • Hotchkiss canon revolver before 1923.jpg (ja)
  • Pamyat'Azova1886-1907f.jpg (ja)
  • Pamyat'Azova1917Kronstadt1.jpg (ja)
  • Pamyat'Azova1917Kronstadt2.jpg (ja)
  • Suomenlinna_gun_2.jpg (ja)
prop-ja:width
  • 300 (xsd:integer)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • パーミャチ・アゾーヴァ(ロシア語: «Па́мять Азо́ва»)は、ロシア帝国が建造し保有した装甲巡洋艦である。日本では大津事件の際のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝ニコライ2世)のとして知られ、ソビエト連邦(以下、ソ連)ではバルト艦隊最初の「革命艦」として知られた。 ロシア帝国海軍での配備当初のはフリゲート(фрегатъ)または装甲フリゲート(броненосный фрегатъ)であったが、同海軍でフリゲートとして配備された艦としてはこれが最後であった。その後、1892年2月1日付けで (крейсеръ I ранга)、1907年9月27日付けで練習船(учебное судно)に類別を変更された。その後、、さらにへ所有者が変わった。1919年5月8日付けで(плавучая база)に類別を変更された。 艦名は、ロシア語で「アゾーフの記憶」という意味であるが、この名はギリシャ独立戦争の際、1827年10月8日に発生したナヴァリノの海戦で英雄的に戦ったことが賞賛された戦列艦「」に敬意を表したものである。関係者のあいだではもっぱら「アゾーフ」(«Азо́въ»)と通称された。伝統に則り、戦列艦「アゾーフ」から代々受け継いだを受領し、舳先にはを取り付けていた。ゲオルギイ十字を持つ、ロシア史上初の蒸気装甲軍艦である。 (ja)
  • パーミャチ・アゾーヴァ(ロシア語: «Па́мять Азо́ва»)は、ロシア帝国が建造し保有した装甲巡洋艦である。日本では大津事件の際のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝ニコライ2世)のとして知られ、ソビエト連邦(以下、ソ連)ではバルト艦隊最初の「革命艦」として知られた。 ロシア帝国海軍での配備当初のはフリゲート(фрегатъ)または装甲フリゲート(броненосный фрегатъ)であったが、同海軍でフリゲートとして配備された艦としてはこれが最後であった。その後、1892年2月1日付けで (крейсеръ I ранга)、1907年9月27日付けで練習船(учебное судно)に類別を変更された。その後、、さらにへ所有者が変わった。1919年5月8日付けで(плавучая база)に類別を変更された。 艦名は、ロシア語で「アゾーフの記憶」という意味であるが、この名はギリシャ独立戦争の際、1827年10月8日に発生したナヴァリノの海戦で英雄的に戦ったことが賞賛された戦列艦「」に敬意を表したものである。関係者のあいだではもっぱら「アゾーフ」(«Азо́въ»)と通称された。伝統に則り、戦列艦「アゾーフ」から代々受け継いだを受領し、舳先にはを取り付けていた。ゲオルギイ十字を持つ、ロシア史上初の蒸気装甲軍艦である。 (ja)
rdfs:label
  • パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦) (ja)
  • パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦) (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of