陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、東北地方と関東地方を束ねる地方政庁であり、東北地方における小朝廷である。 後醍醐天皇は皇子,義良親王(後の後村上天皇)に寵臣である従一位(贈正一位),大納言, 源氏氏長者,准后,北畠親房および親房の第一子,正三位,公卿,参議,左近衛中将,北畠顕家を付けると、陸奥国の国府兼鎮守府 (古代)・多賀城(宮城県多賀城市)に下向させた。陸奥将軍府は執権北条氏の鎌倉幕府に代わって東日本を束ねる役割を担っていた。過去にこのような大規模な地方政庁は鎌倉幕府の六波羅探題と室町幕府の鎌倉府だけであったが、六波羅探題と鎌倉府が武士の地方政庁であったのに対して陸奥将軍府はのちの後村上天皇を公卿,北畠顕家が奉じた別格の地方政庁であり、東北地方における小朝廷といえるものであった。義良親王は多賀城に入城したあと三品に叙しに任ぜられ、陸奥国は親王任国となった。親王任国は平安時代に常陸国・上野国・上総国の3国に限って名目上親王を国司(太守)に任命したが、それは親王が現地には下向しない遥任であった。これに対して陸奥国の親王任国は義良親王が陸奥国に下向して多賀城に入城した親王任国であり、日本史上初となる別格の親王任国である。1331年( 元弘1年 )、後醍醐天皇が正中の変に続く倒幕計画,元弘の変に失敗すると、後醍醐天皇は京都,笠置に潜伏した。そこで鎌倉幕府の執権,北条高時を押さえていた内管領(執事),長崎高資は、光厳天皇を擁立した。しかしこのとき後醍醐天皇を支持する楠木正成が山城の赤坂城で挙兵し、籠城した正成はゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を苦戦させた。

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  • 陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、東北地方と関東地方を束ねる地方政庁であり、東北地方における小朝廷である。 後醍醐天皇は皇子,義良親王(後の後村上天皇)に寵臣である従一位(贈正一位),大納言, 源氏氏長者,准后,北畠親房および親房の第一子,正三位,公卿,参議,左近衛中将,北畠顕家を付けると、陸奥国の国府兼鎮守府 (古代)・多賀城(宮城県多賀城市)に下向させた。陸奥将軍府は執権北条氏の鎌倉幕府に代わって東日本を束ねる役割を担っていた。過去にこのような大規模な地方政庁は鎌倉幕府の六波羅探題と室町幕府の鎌倉府だけであったが、六波羅探題と鎌倉府が武士の地方政庁であったのに対して陸奥将軍府はのちの後村上天皇を公卿,北畠顕家が奉じた別格の地方政庁であり、東北地方における小朝廷といえるものであった。義良親王は多賀城に入城したあと三品に叙しに任ぜられ、陸奥国は親王任国となった。親王任国は平安時代に常陸国・上野国・上総国の3国に限って名目上親王を国司(太守)に任命したが、それは親王が現地には下向しない遥任であった。これに対して陸奥国の親王任国は義良親王が陸奥国に下向して多賀城に入城した親王任国であり、日本史上初となる別格の親王任国である。1331年( 元弘1年 )、後醍醐天皇が正中の変に続く倒幕計画,元弘の変に失敗すると、後醍醐天皇は京都,笠置に潜伏した。そこで鎌倉幕府の執権,北条高時を押さえていた内管領(執事),長崎高資は、光厳天皇を擁立した。しかしこのとき後醍醐天皇を支持する楠木正成が山城の赤坂城で挙兵し、籠城した正成はゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を苦戦させた。 翌1332年( 元弘2年)、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐の島へ配されたが、後醍醐天皇の皇子, 護良親王が挙兵し、これに呼応した楠木正成が千早城で幕府の大軍を苦戦させた。 1333年(元弘3年)、後醍醐天皇を支持する赤松則村が挙兵すると後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年が後醍醐天皇を迎え入れた。すると足利尊氏が挙兵して鎌倉幕府の京都における拠点, 六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞が北条高時,長崎高資の鎌倉幕府を攻め滅ぼした (北条氏の滅亡)。こうして後醍醐天皇は天皇親政である建武の新政を行った。 同1333年、後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍に、義良親王を親王任国である陸奥国の国司,に、足利尊氏を鎮守府将軍に任命した。後醍醐天皇は鎌倉幕府に代わる東日本の小朝廷として、東北地方と関東地方を束ねる陸奥将軍府を陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に設置した。義良親王には後醍醐天皇の寵臣,北畠親房と親房の第一子である北畠顕家が陸奥守・鎮守大将軍として付けられ、義良親王は北畠親房,顕家親子に奉じられて陸奥国(宮城県)の陸奥国府兼鎮守府 (古代),多賀城に入った。 1334年(建武1年)1月、陸奥将軍府に最高政治組織である式評定衆がつくられた。式評定衆には最高議政官が8人いた。『建武記』には、その8人のうち2人は公卿である冷泉家房、藤原英房。3人が鎌倉幕府の評定衆経験者およびその系統の者で、元覚入道、二階堂行朝、二階堂顕行。3人が東北地方の有力武将である伊達行朝と結城宗広、結城親朝の親子であった。朝廷(京都)・関東(鎌倉)・東北(多賀城)其々に対する配慮がうかがえる政治組織である。政所執事・評定衆・寺社奉行・安堵奉行・侍所も設置された。こうして東北地方に所領をもっていた関東地方の武士の大半が陸奥将軍府が設置された多賀城に下向し、幕府があった鎌倉は名ばかりの存在となった。 陸奥将軍府設置の背景として、足利尊氏と対立し征夷大将軍に任命された護良親王は北畠親房らと尊氏牽制のための小幕府構想を運動したとする佐藤進一の説と後醍醐天皇が奥羽統治の積極的な展開を目指して設置したとするの説がある。いずれにしても、旧北条氏・足利氏の有力一門の斯波氏の支配地も多かった陸奥国において、奥羽の秩序を安定化させるとともに朝廷の支配下に武士を取り込むことが不可欠であった。また、近年の説としては、鎌倉幕府の機能そのものを陸奥将軍府に移して鎌倉(関東)から政治的機能を除去する目的があったものの、足利氏などの関東の御家人や旧幕府吏僚の反発でやむなく鎌倉将軍府を設置した(ただし、恩賞宛行や引付機能は陸奥将軍府にしか認めず、鎌倉将軍府の権限は僅かであった)とする坂田雄一の説もある。北畠顕家に与えられた権限は非常に強く、後醍醐天皇に一元化されていた恩賞充行の権限も陸奥国については顕家に一任され、天皇が宛行する例外は他ならぬ顕家自身と顕家と同じく建武政権の重鎮であった白河結城氏の結城宗広のみとされた。また、顕家は陸奥守として国宣を発給し、政所・侍所・引付衆をはじめ公卿や在地の武将からなる式評定衆を置いて、鎌倉幕府の職制を模した小幕府としての支配基盤を築いた。 ところが同1334年12月、足利尊氏が後醍醐天皇への巻き返しをはかり、後醍醐天皇の皇子,成良親王に弟,足利直義を付けて鎌倉へ下向させ、反陸奥将軍府の性格をもつ鎌倉将軍府を成立させた。こうして尊氏は関東地方の武士たちの一部を自分の側に取り戻すことに成功した。 更に足利尊氏は後醍醐天皇の側室, 阿野廉子を味方につけると、征夷大将軍,護良親王が後醍醐天皇の帝位を狙っていると讒言し、護良親王は征夷大将軍を解任させた。そして尊氏は護良親王を捕らえると鎌倉将軍府がある鎌倉へ移送し、弟,足利直義の監視下においた。 1334年(建武1年)7月、信濃国で北条高時の遺児, 北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉を占領した。このとき鎌倉将軍府の執権,足利直義は土牢に入れていた護良親王を殺害した。後醍醐天皇は朝廷軍を司令官,足利尊氏に預け、京都から出陣した足利尊氏は北条高時を倒して鎌倉を奪還した。しかし尊氏は鎌倉に留まって帰京を拒否し、後醍醐天皇への反乱を起こした(事実上の,南北朝の内乱の始まり)。鎌倉将軍府の成良親王は征夷大将軍となったが解任され、のちに足利尊氏が擁立した光明天皇の皇太子となったが廃されて、兄,恒良親王と共に毒殺される。 1335年、(建武2年)足利尊氏は尊氏追討のために派兵された朝廷軍の新田義貞らを撃破すると、逆に西上して京都へ進撃し京都を占領した。同年12月、後醍醐天皇の命を受けた義良親王を推戴した北畠顕家は父,北畠親房と共に奥羽軍を率いて多賀城から出陣し、東下した関東地方で新田義貞らの関東武士と合流すると、北畠顕家らは鎌倉で尊氏の子, 足利義詮(室町幕府第2代将軍)らを撃破して鎌倉を奪還した。さらに義良親王,北畠顕家らは東海道を西上し、関西武士の楠木正成らと共に近江国で足利尊氏を撃破し尊氏は九州へと敗走した。   しかし、1336年(延元1年, 建武3年)、足利尊氏は九州地方,筑前国へ落ち延びると宗像大社のらの支援によって多々良浜の戦いで菊池武敏を撃破して体制を立て直し、東上した尊氏は湊川の戦いで楠木正成を敗死させた。更に尊氏は京都を奪還すると光明天皇を擁立し、ここに南北朝時代 (日本)が始まった。後醍醐天皇は京都,吉野山へ逃れた(南朝 (日本)) 。同年、足利氏の親戚であるのちの三管領,斯波氏の斯波家長は奥州管領に任命されると陸奥国に入り、現地の武将である鎌倉幕府の奥州総奉行の家柄,留守氏や相馬氏を北朝方として組織した。このとき陸奥国府兼多賀城に近い岩切城城主,留守家任の寝返りが大きく響き、多賀城は安定性を失ってしまった。そこで翌1337年(延元2年, 建武4年)正月、北畠顕家らは陸奥将軍府の自治政府機関,式評定衆の最高議政官の一人,伊達行朝の本拠地である福島県の霊山城に陸奥将軍府を遷した。この多賀城没落が、南北朝の内乱における南朝 (日本)が政治の座から転落するきっかけとなった。 同1337年8月、奥羽軍を率いた陸奥守,北畠顕家は陸奥国,霊山から出陣すると、北朝方の奥州管領,斯波家長を敗死させ再び鎌倉を奪還した。顕家は西上して        尾張国・美濃国で足利勢と戦ったが戦果を得られず、顕家は伊勢国・伊賀国・大和国と転戦したが、共同作戦予定の北陸勢や九州勢が参加せず、各地で戦いに敗れた。そして1338年(延元3年,建武5年)5月、北畠顕家は和泉国で足利尊氏の側近である高師直とその弟, 高師泰との 石津の戦いで敗れて戦死した。同年7月、新田義貞も斯波高経が派兵した北朝軍との藤島の戦いで敗れて戦死した。 このため、同年閏7月に弟の北畠顕信が陸奥介兼鎮守府将軍に任じられて父の親房・結城宗広とともに伊勢国大湊から海路陸奥を目指したが、途中で暴風雨に遭遇して伊勢国に引き返した(父,親房は常陸国にたどり着いた)。北畠顕信は再び陸奥行きを志し、1340年6月に陸奥国、伊達行朝 の霊山 (福島県)に入った。1343年、父の親房が関城・大宝城の戦いに敗れて吉野に逃れた後も、顕信は霊山に留まり、北朝が1345年に設置した奥州管領と争う。だが、1347年には霊山などを北朝方に奪われて苦境に陥る。その後、観応の擾乱に乗じて再起を図るが、1353年5月に最後の拠点であった宇津峰城が陥落すると事実上崩壊した。 親王太守と北畠顕家の威望によって奥羽将軍府は奥羽における南朝方の柱として機能したが、1338年(延元3年)の顕家の戦死後は振わなくなり、幕府方の奥州管領・奥州探題として送り込まれた吉良氏・石堂氏・畠山氏・石橋氏・斯波氏らによって指揮された足利方の勢力によってに圧倒され、多賀国府も追われることとなり、奥羽将軍府はその実を失ってしまった。 (ja)
  • 陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、東北地方と関東地方を束ねる地方政庁であり、東北地方における小朝廷である。 後醍醐天皇は皇子,義良親王(後の後村上天皇)に寵臣である従一位(贈正一位),大納言, 源氏氏長者,准后,北畠親房および親房の第一子,正三位,公卿,参議,左近衛中将,北畠顕家を付けると、陸奥国の国府兼鎮守府 (古代)・多賀城(宮城県多賀城市)に下向させた。陸奥将軍府は執権北条氏の鎌倉幕府に代わって東日本を束ねる役割を担っていた。過去にこのような大規模な地方政庁は鎌倉幕府の六波羅探題と室町幕府の鎌倉府だけであったが、六波羅探題と鎌倉府が武士の地方政庁であったのに対して陸奥将軍府はのちの後村上天皇を公卿,北畠顕家が奉じた別格の地方政庁であり、東北地方における小朝廷といえるものであった。義良親王は多賀城に入城したあと三品に叙しに任ぜられ、陸奥国は親王任国となった。親王任国は平安時代に常陸国・上野国・上総国の3国に限って名目上親王を国司(太守)に任命したが、それは親王が現地には下向しない遥任であった。これに対して陸奥国の親王任国は義良親王が陸奥国に下向して多賀城に入城した親王任国であり、日本史上初となる別格の親王任国である。1331年( 元弘1年 )、後醍醐天皇が正中の変に続く倒幕計画,元弘の変に失敗すると、後醍醐天皇は京都,笠置に潜伏した。そこで鎌倉幕府の執権,北条高時を押さえていた内管領(執事),長崎高資は、光厳天皇を擁立した。しかしこのとき後醍醐天皇を支持する楠木正成が山城の赤坂城で挙兵し、籠城した正成はゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を苦戦させた。 翌1332年( 元弘2年)、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐の島へ配されたが、後醍醐天皇の皇子, 護良親王が挙兵し、これに呼応した楠木正成が千早城で幕府の大軍を苦戦させた。 1333年(元弘3年)、後醍醐天皇を支持する赤松則村が挙兵すると後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年が後醍醐天皇を迎え入れた。すると足利尊氏が挙兵して鎌倉幕府の京都における拠点, 六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞が北条高時,長崎高資の鎌倉幕府を攻め滅ぼした (北条氏の滅亡)。こうして後醍醐天皇は天皇親政である建武の新政を行った。 同1333年、後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍に、義良親王を親王任国である陸奥国の国司,に、足利尊氏を鎮守府将軍に任命した。後醍醐天皇は鎌倉幕府に代わる東日本の小朝廷として、東北地方と関東地方を束ねる陸奥将軍府を陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に設置した。義良親王には後醍醐天皇の寵臣,北畠親房と親房の第一子である北畠顕家が陸奥守・鎮守大将軍として付けられ、義良親王は北畠親房,顕家親子に奉じられて陸奥国(宮城県)の陸奥国府兼鎮守府 (古代),多賀城に入った。 1334年(建武1年)1月、陸奥将軍府に最高政治組織である式評定衆がつくられた。式評定衆には最高議政官が8人いた。『建武記』には、その8人のうち2人は公卿である冷泉家房、藤原英房。3人が鎌倉幕府の評定衆経験者およびその系統の者で、元覚入道、二階堂行朝、二階堂顕行。3人が東北地方の有力武将である伊達行朝と結城宗広、結城親朝の親子であった。朝廷(京都)・関東(鎌倉)・東北(多賀城)其々に対する配慮がうかがえる政治組織である。政所執事・評定衆・寺社奉行・安堵奉行・侍所も設置された。こうして東北地方に所領をもっていた関東地方の武士の大半が陸奥将軍府が設置された多賀城に下向し、幕府があった鎌倉は名ばかりの存在となった。 陸奥将軍府設置の背景として、足利尊氏と対立し征夷大将軍に任命された護良親王は北畠親房らと尊氏牽制のための小幕府構想を運動したとする佐藤進一の説と後醍醐天皇が奥羽統治の積極的な展開を目指して設置したとするの説がある。いずれにしても、旧北条氏・足利氏の有力一門の斯波氏の支配地も多かった陸奥国において、奥羽の秩序を安定化させるとともに朝廷の支配下に武士を取り込むことが不可欠であった。また、近年の説としては、鎌倉幕府の機能そのものを陸奥将軍府に移して鎌倉(関東)から政治的機能を除去する目的があったものの、足利氏などの関東の御家人や旧幕府吏僚の反発でやむなく鎌倉将軍府を設置した(ただし、恩賞宛行や引付機能は陸奥将軍府にしか認めず、鎌倉将軍府の権限は僅かであった)とする坂田雄一の説もある。北畠顕家に与えられた権限は非常に強く、後醍醐天皇に一元化されていた恩賞充行の権限も陸奥国については顕家に一任され、天皇が宛行する例外は他ならぬ顕家自身と顕家と同じく建武政権の重鎮であった白河結城氏の結城宗広のみとされた。また、顕家は陸奥守として国宣を発給し、政所・侍所・引付衆をはじめ公卿や在地の武将からなる式評定衆を置いて、鎌倉幕府の職制を模した小幕府としての支配基盤を築いた。 ところが同1334年12月、足利尊氏が後醍醐天皇への巻き返しをはかり、後醍醐天皇の皇子,成良親王に弟,足利直義を付けて鎌倉へ下向させ、反陸奥将軍府の性格をもつ鎌倉将軍府を成立させた。こうして尊氏は関東地方の武士たちの一部を自分の側に取り戻すことに成功した。 更に足利尊氏は後醍醐天皇の側室, 阿野廉子を味方につけると、征夷大将軍,護良親王が後醍醐天皇の帝位を狙っていると讒言し、護良親王は征夷大将軍を解任させた。そして尊氏は護良親王を捕らえると鎌倉将軍府がある鎌倉へ移送し、弟,足利直義の監視下においた。 1334年(建武1年)7月、信濃国で北条高時の遺児, 北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉を占領した。このとき鎌倉将軍府の執権,足利直義は土牢に入れていた護良親王を殺害した。後醍醐天皇は朝廷軍を司令官,足利尊氏に預け、京都から出陣した足利尊氏は北条高時を倒して鎌倉を奪還した。しかし尊氏は鎌倉に留まって帰京を拒否し、後醍醐天皇への反乱を起こした(事実上の,南北朝の内乱の始まり)。鎌倉将軍府の成良親王は征夷大将軍となったが解任され、のちに足利尊氏が擁立した光明天皇の皇太子となったが廃されて、兄,恒良親王と共に毒殺される。 1335年、(建武2年)足利尊氏は尊氏追討のために派兵された朝廷軍の新田義貞らを撃破すると、逆に西上して京都へ進撃し京都を占領した。同年12月、後醍醐天皇の命を受けた義良親王を推戴した北畠顕家は父,北畠親房と共に奥羽軍を率いて多賀城から出陣し、東下した関東地方で新田義貞らの関東武士と合流すると、北畠顕家らは鎌倉で尊氏の子, 足利義詮(室町幕府第2代将軍)らを撃破して鎌倉を奪還した。さらに義良親王,北畠顕家らは東海道を西上し、関西武士の楠木正成らと共に近江国で足利尊氏を撃破し尊氏は九州へと敗走した。   しかし、1336年(延元1年, 建武3年)、足利尊氏は九州地方,筑前国へ落ち延びると宗像大社のらの支援によって多々良浜の戦いで菊池武敏を撃破して体制を立て直し、東上した尊氏は湊川の戦いで楠木正成を敗死させた。更に尊氏は京都を奪還すると光明天皇を擁立し、ここに南北朝時代 (日本)が始まった。後醍醐天皇は京都,吉野山へ逃れた(南朝 (日本)) 。同年、足利氏の親戚であるのちの三管領,斯波氏の斯波家長は奥州管領に任命されると陸奥国に入り、現地の武将である鎌倉幕府の奥州総奉行の家柄,留守氏や相馬氏を北朝方として組織した。このとき陸奥国府兼多賀城に近い岩切城城主,留守家任の寝返りが大きく響き、多賀城は安定性を失ってしまった。そこで翌1337年(延元2年, 建武4年)正月、北畠顕家らは陸奥将軍府の自治政府機関,式評定衆の最高議政官の一人,伊達行朝の本拠地である福島県の霊山城に陸奥将軍府を遷した。この多賀城没落が、南北朝の内乱における南朝 (日本)が政治の座から転落するきっかけとなった。 同1337年8月、奥羽軍を率いた陸奥守,北畠顕家は陸奥国,霊山から出陣すると、北朝方の奥州管領,斯波家長を敗死させ再び鎌倉を奪還した。顕家は西上して        尾張国・美濃国で足利勢と戦ったが戦果を得られず、顕家は伊勢国・伊賀国・大和国と転戦したが、共同作戦予定の北陸勢や九州勢が参加せず、各地で戦いに敗れた。そして1338年(延元3年,建武5年)5月、北畠顕家は和泉国で足利尊氏の側近である高師直とその弟, 高師泰との 石津の戦いで敗れて戦死した。同年7月、新田義貞も斯波高経が派兵した北朝軍との藤島の戦いで敗れて戦死した。 このため、同年閏7月に弟の北畠顕信が陸奥介兼鎮守府将軍に任じられて父の親房・結城宗広とともに伊勢国大湊から海路陸奥を目指したが、途中で暴風雨に遭遇して伊勢国に引き返した(父,親房は常陸国にたどり着いた)。北畠顕信は再び陸奥行きを志し、1340年6月に陸奥国、伊達行朝 の霊山 (福島県)に入った。1343年、父の親房が関城・大宝城の戦いに敗れて吉野に逃れた後も、顕信は霊山に留まり、北朝が1345年に設置した奥州管領と争う。だが、1347年には霊山などを北朝方に奪われて苦境に陥る。その後、観応の擾乱に乗じて再起を図るが、1353年5月に最後の拠点であった宇津峰城が陥落すると事実上崩壊した。 親王太守と北畠顕家の威望によって奥羽将軍府は奥羽における南朝方の柱として機能したが、1338年(延元3年)の顕家の戦死後は振わなくなり、幕府方の奥州管領・奥州探題として送り込まれた吉良氏・石堂氏・畠山氏・石橋氏・斯波氏らによって指揮された足利方の勢力によってに圧倒され、多賀国府も追われることとなり、奥羽将軍府はその実を失ってしまった。 (ja)
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  • 陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、東北地方と関東地方を束ねる地方政庁であり、東北地方における小朝廷である。 後醍醐天皇は皇子,義良親王(後の後村上天皇)に寵臣である従一位(贈正一位),大納言, 源氏氏長者,准后,北畠親房および親房の第一子,正三位,公卿,参議,左近衛中将,北畠顕家を付けると、陸奥国の国府兼鎮守府 (古代)・多賀城(宮城県多賀城市)に下向させた。陸奥将軍府は執権北条氏の鎌倉幕府に代わって東日本を束ねる役割を担っていた。過去にこのような大規模な地方政庁は鎌倉幕府の六波羅探題と室町幕府の鎌倉府だけであったが、六波羅探題と鎌倉府が武士の地方政庁であったのに対して陸奥将軍府はのちの後村上天皇を公卿,北畠顕家が奉じた別格の地方政庁であり、東北地方における小朝廷といえるものであった。義良親王は多賀城に入城したあと三品に叙しに任ぜられ、陸奥国は親王任国となった。親王任国は平安時代に常陸国・上野国・上総国の3国に限って名目上親王を国司(太守)に任命したが、それは親王が現地には下向しない遥任であった。これに対して陸奥国の親王任国は義良親王が陸奥国に下向して多賀城に入城した親王任国であり、日本史上初となる別格の親王任国である。1331年( 元弘1年 )、後醍醐天皇が正中の変に続く倒幕計画,元弘の変に失敗すると、後醍醐天皇は京都,笠置に潜伏した。そこで鎌倉幕府の執権,北条高時を押さえていた内管領(執事),長崎高資は、光厳天皇を擁立した。しかしこのとき後醍醐天皇を支持する楠木正成が山城の赤坂城で挙兵し、籠城した正成はゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を苦戦させた。 (ja)
  • 陸奥将軍府(むつしょうぐんふ)とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、東北地方と関東地方を束ねる地方政庁であり、東北地方における小朝廷である。 後醍醐天皇は皇子,義良親王(後の後村上天皇)に寵臣である従一位(贈正一位),大納言, 源氏氏長者,准后,北畠親房および親房の第一子,正三位,公卿,参議,左近衛中将,北畠顕家を付けると、陸奥国の国府兼鎮守府 (古代)・多賀城(宮城県多賀城市)に下向させた。陸奥将軍府は執権北条氏の鎌倉幕府に代わって東日本を束ねる役割を担っていた。過去にこのような大規模な地方政庁は鎌倉幕府の六波羅探題と室町幕府の鎌倉府だけであったが、六波羅探題と鎌倉府が武士の地方政庁であったのに対して陸奥将軍府はのちの後村上天皇を公卿,北畠顕家が奉じた別格の地方政庁であり、東北地方における小朝廷といえるものであった。義良親王は多賀城に入城したあと三品に叙しに任ぜられ、陸奥国は親王任国となった。親王任国は平安時代に常陸国・上野国・上総国の3国に限って名目上親王を国司(太守)に任命したが、それは親王が現地には下向しない遥任であった。これに対して陸奥国の親王任国は義良親王が陸奥国に下向して多賀城に入城した親王任国であり、日本史上初となる別格の親王任国である。1331年( 元弘1年 )、後醍醐天皇が正中の変に続く倒幕計画,元弘の変に失敗すると、後醍醐天皇は京都,笠置に潜伏した。そこで鎌倉幕府の執権,北条高時を押さえていた内管領(執事),長崎高資は、光厳天皇を擁立した。しかしこのとき後醍醐天皇を支持する楠木正成が山城の赤坂城で挙兵し、籠城した正成はゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を苦戦させた。 (ja)
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