木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。 初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将または若狭宰相という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。

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  • 木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。 初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将または若狭宰相という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。 (ja)
  • 木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。 初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将または若狭宰相という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。 (ja)
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  • ペテロ (ja)
  • 長嘯、長嘯子、挙白、天哉、夢翁、西山樵夫、西山樵翁(俳号) (ja)
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  • 大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士 (ja)
  • 大蔵(幼名)、勝俊、木下長嘯子 (ja)
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  • 尾張国 (ja)
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  • (隠棲前・長嘯子と名乗る以前の時期の勝俊の座像がある) (ja)
  • 円徳院・歌仙堂 (ja)
  • 木下長嘯子宅跡 (ja)
  • (愛知県名古屋市中村区中村町) (ja)
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  • 木下長嘯子 (ja)
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prop-ja:墓所
  • 京都府京都市東山区の高台寺 (ja)
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  • 正室:うめ(宝泉院)(森可成の娘) (ja)
  • 側室:複数 (ja)
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  • 天祥院(武田信吉室)、智光院(山崎家治室)、女(阿野公業室)、春光院万花紹三、勝信(橋本勝信) (ja)
  • 天祥院(武田信吉室)、智光院(山崎家治室)、女(阿野公業室)、春光院万花紹三、勝信(橋本勝信) (ja)
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  • 従五位下侍従、従四位下式部大夫、参議、左近衛権少将 (ja)
  • 従五位下侍従、従四位下式部大夫、参議、左近衛権少将 (ja)
prop-ja:戒名
  • 大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士 (ja)
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  • 大蔵(幼名)、勝俊、木下長嘯子 (ja)
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  • 木下 勝俊 (ja)
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  • 勝俊は武田元明と京極竜子の間に生まれた男子であるという異説もある (ja)
  • 勝俊は武田元明と京極竜子の間に生まれた男子であるという異説もある (ja)
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  • 永禄12年(1569年) (ja)
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  • 木下長嘯子像(模写) (ja)
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  • 備中足守藩主 (ja)
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  • 木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。 初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将または若狭宰相という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。 (ja)
  • 木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。 初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将または若狭宰相という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ)と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。 (ja)
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  • 木下勝俊 (ja)
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  • 木下 勝俊 (ja)
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