岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)および玖珂郡南部を領地とした藩。藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)。江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川家が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もある。 長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。 以下では、前身である岩国領の時代から併せて記述する。

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  • 岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)および玖珂郡南部を領地とした藩。藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)。江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川家が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もある。 長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。 以下では、前身である岩国領の時代から併せて記述する。 (ja)
  • 岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)および玖珂郡南部を領地とした藩。藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)。江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川家が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もある。 長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。 以下では、前身である岩国領の時代から併せて記述する。 (ja)
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  • 岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)および玖珂郡南部を領地とした藩。藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)。江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川家が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もある。 長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。 以下では、前身である岩国領の時代から併せて記述する。 (ja)
  • 岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)および玖珂郡南部を領地とした藩。藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)。江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川家が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もある。 長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。 以下では、前身である岩国領の時代から併せて記述する。 (ja)
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  • 岩国藩 (ja)
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