清浄行(しょうじょうぎょう)に関して、漢訳仏典では梵行と訳している場合が多い。厳密には清らかな行、崇高な行ということで、宗教的な修養のことを意味しているとされる。しかし、初期仏教において「清らかな行い」とは、宗教的な修養ということを意味するものにとどまらず、善友という考え方との関係からすると、ゴータマの宗教的活動の全体を意味するものでもあった。 あるときコーサラ国王に対して、「善き友をもつことは、清浄行の全体である。」と語り、修行に関係している者全体が、清浄行をとおして八つの正しい道を修めることになるであろうとした。そして、王に対して、自分自身も善き友となるように、善きことをなすのに務め励むならば、八つの正しい道を盛んならしめることになることを教示した。初期仏教の中心思想 としては、「悪をなさず」ということが考えられている。そして悪をなさないことの対極にある善きこととは、清浄行というものが考えられていて、宗派の枠を超えて自他ともに善友となってゆくことが、活動の目的の位置にあったと見ることも出来る。ゴータマは、いかなる宗教をも容認する立場を取っていたとされ、仏教という特定の立場を設けて、他の宗教の実践者を否定しなかったので、世の中に対しては「悪をなさず」ということを表明し、帰依者に対しては「清浄な行い」を説いていたようだ。そして、そうした活動の全体を示唆するヴィジョンのようなものが、「善友」という言葉で説かれていると見ることが出来る。

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  • 清浄行(しょうじょうぎょう)に関して、漢訳仏典では梵行と訳している場合が多い。厳密には清らかな行、崇高な行ということで、宗教的な修養のことを意味しているとされる。しかし、初期仏教において「清らかな行い」とは、宗教的な修養ということを意味するものにとどまらず、善友という考え方との関係からすると、ゴータマの宗教的活動の全体を意味するものでもあった。 あるときコーサラ国王に対して、「善き友をもつことは、清浄行の全体である。」と語り、修行に関係している者全体が、清浄行をとおして八つの正しい道を修めることになるであろうとした。そして、王に対して、自分自身も善き友となるように、善きことをなすのに務め励むならば、八つの正しい道を盛んならしめることになることを教示した。初期仏教の中心思想 としては、「悪をなさず」ということが考えられている。そして悪をなさないことの対極にある善きこととは、清浄行というものが考えられていて、宗派の枠を超えて自他ともに善友となってゆくことが、活動の目的の位置にあったと見ることも出来る。ゴータマは、いかなる宗教をも容認する立場を取っていたとされ、仏教という特定の立場を設けて、他の宗教の実践者を否定しなかったので、世の中に対しては「悪をなさず」ということを表明し、帰依者に対しては「清浄な行い」を説いていたようだ。そして、そうした活動の全体を示唆するヴィジョンのようなものが、「善友」という言葉で説かれていると見ることが出来る。 「私(ゴータマ)を善き友とすることによって、生老病死という性質を持っている人は生老病死から解脱し、悲しみ、嘆き、苦しみ、悶えという性質を持っている人々は、悲しみ、嘆き、苦しみ、悶えという性質から、解脱するのである。」と語ったとされている。 そのことは、晩年にいたるまで各地を遍歴し対機説法をなしていたゴータマにとって、自他ともに善き友になってゆく世の中になることが実践的な仏教の(四諦のなかで言うと)滅諦となっていたと見ることができる。 213 「世の人々のことについて、聖者は、善き友と交わることをほめたたえられました。215 ひとは、四つの尊い真理、すなわち苦しみと、苦しみの生起と、終滅と、八つの実践法よりなる道とを識知すべきであります。222 わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る道を実習しました。安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました。」とゴータミー尼は語ったとされる。 初期の教えにおいて、悟りの道を歩んでゆく人の道筋には、世間を覆っている無明というものから抜け出るまでは、無我という観点から、実体的なものと考えられやすい身体的な自己を調御してゆくことがその始まりにあるとされた。そして煩悩の汚れを滅ぼしつづけることにより窟のうちに留まっているたましい(霊)を解脱するという観点から、真人の我となることを目的としてゆくということが、悟りへの道であると説かれていたようである。さとりの道に到達した者は、何転生かののちには必ず悟りに到達すると言われていたことから考えると、清浄行の全体というものは修行完成者の立場から見た場合、今世のみにとどまらず、光に向かう人間全体が何転生にもわたって清浄行に努めるというほどの意味合いがあったものと見ることが出来る。また、「もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地」というのは、初期の仏教では理想の境地とされていたとされることについても、林野にて個々人のさとりを究めることよりも、社会全体に清浄行を盛んにしてゆくことの比率の方が大きかったのではないかと思われてくる。 (ja)
  • 清浄行(しょうじょうぎょう)に関して、漢訳仏典では梵行と訳している場合が多い。厳密には清らかな行、崇高な行ということで、宗教的な修養のことを意味しているとされる。しかし、初期仏教において「清らかな行い」とは、宗教的な修養ということを意味するものにとどまらず、善友という考え方との関係からすると、ゴータマの宗教的活動の全体を意味するものでもあった。 あるときコーサラ国王に対して、「善き友をもつことは、清浄行の全体である。」と語り、修行に関係している者全体が、清浄行をとおして八つの正しい道を修めることになるであろうとした。そして、王に対して、自分自身も善き友となるように、善きことをなすのに務め励むならば、八つの正しい道を盛んならしめることになることを教示した。初期仏教の中心思想 としては、「悪をなさず」ということが考えられている。そして悪をなさないことの対極にある善きこととは、清浄行というものが考えられていて、宗派の枠を超えて自他ともに善友となってゆくことが、活動の目的の位置にあったと見ることも出来る。ゴータマは、いかなる宗教をも容認する立場を取っていたとされ、仏教という特定の立場を設けて、他の宗教の実践者を否定しなかったので、世の中に対しては「悪をなさず」ということを表明し、帰依者に対しては「清浄な行い」を説いていたようだ。そして、そうした活動の全体を示唆するヴィジョンのようなものが、「善友」という言葉で説かれていると見ることが出来る。 「私(ゴータマ)を善き友とすることによって、生老病死という性質を持っている人は生老病死から解脱し、悲しみ、嘆き、苦しみ、悶えという性質を持っている人々は、悲しみ、嘆き、苦しみ、悶えという性質から、解脱するのである。」と語ったとされている。 そのことは、晩年にいたるまで各地を遍歴し対機説法をなしていたゴータマにとって、自他ともに善き友になってゆく世の中になることが実践的な仏教の(四諦のなかで言うと)滅諦となっていたと見ることができる。 213 「世の人々のことについて、聖者は、善き友と交わることをほめたたえられました。215 ひとは、四つの尊い真理、すなわち苦しみと、苦しみの生起と、終滅と、八つの実践法よりなる道とを識知すべきであります。222 わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る道を実習しました。安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました。」とゴータミー尼は語ったとされる。 初期の教えにおいて、悟りの道を歩んでゆく人の道筋には、世間を覆っている無明というものから抜け出るまでは、無我という観点から、実体的なものと考えられやすい身体的な自己を調御してゆくことがその始まりにあるとされた。そして煩悩の汚れを滅ぼしつづけることにより窟のうちに留まっているたましい(霊)を解脱するという観点から、真人の我となることを目的としてゆくということが、悟りへの道であると説かれていたようである。さとりの道に到達した者は、何転生かののちには必ず悟りに到達すると言われていたことから考えると、清浄行の全体というものは修行完成者の立場から見た場合、今世のみにとどまらず、光に向かう人間全体が何転生にもわたって清浄行に努めるというほどの意味合いがあったものと見ることが出来る。また、「もはや輪廻の範囲に戻ってくることのない境地」というのは、初期の仏教では理想の境地とされていたとされることについても、林野にて個々人のさとりを究めることよりも、社会全体に清浄行を盛んにしてゆくことの比率の方が大きかったのではないかと思われてくる。 (ja)
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  • 清浄行(しょうじょうぎょう)に関して、漢訳仏典では梵行と訳している場合が多い。厳密には清らかな行、崇高な行ということで、宗教的な修養のことを意味しているとされる。しかし、初期仏教において「清らかな行い」とは、宗教的な修養ということを意味するものにとどまらず、善友という考え方との関係からすると、ゴータマの宗教的活動の全体を意味するものでもあった。 あるときコーサラ国王に対して、「善き友をもつことは、清浄行の全体である。」と語り、修行に関係している者全体が、清浄行をとおして八つの正しい道を修めることになるであろうとした。そして、王に対して、自分自身も善き友となるように、善きことをなすのに務め励むならば、八つの正しい道を盛んならしめることになることを教示した。初期仏教の中心思想 としては、「悪をなさず」ということが考えられている。そして悪をなさないことの対極にある善きこととは、清浄行というものが考えられていて、宗派の枠を超えて自他ともに善友となってゆくことが、活動の目的の位置にあったと見ることも出来る。ゴータマは、いかなる宗教をも容認する立場を取っていたとされ、仏教という特定の立場を設けて、他の宗教の実践者を否定しなかったので、世の中に対しては「悪をなさず」ということを表明し、帰依者に対しては「清浄な行い」を説いていたようだ。そして、そうした活動の全体を示唆するヴィジョンのようなものが、「善友」という言葉で説かれていると見ることが出来る。 (ja)
  • 清浄行(しょうじょうぎょう)に関して、漢訳仏典では梵行と訳している場合が多い。厳密には清らかな行、崇高な行ということで、宗教的な修養のことを意味しているとされる。しかし、初期仏教において「清らかな行い」とは、宗教的な修養ということを意味するものにとどまらず、善友という考え方との関係からすると、ゴータマの宗教的活動の全体を意味するものでもあった。 あるときコーサラ国王に対して、「善き友をもつことは、清浄行の全体である。」と語り、修行に関係している者全体が、清浄行をとおして八つの正しい道を修めることになるであろうとした。そして、王に対して、自分自身も善き友となるように、善きことをなすのに務め励むならば、八つの正しい道を盛んならしめることになることを教示した。初期仏教の中心思想 としては、「悪をなさず」ということが考えられている。そして悪をなさないことの対極にある善きこととは、清浄行というものが考えられていて、宗派の枠を超えて自他ともに善友となってゆくことが、活動の目的の位置にあったと見ることも出来る。ゴータマは、いかなる宗教をも容認する立場を取っていたとされ、仏教という特定の立場を設けて、他の宗教の実践者を否定しなかったので、世の中に対しては「悪をなさず」ということを表明し、帰依者に対しては「清浄な行い」を説いていたようだ。そして、そうした活動の全体を示唆するヴィジョンのようなものが、「善友」という言葉で説かれていると見ることが出来る。 (ja)
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  • 清浄行 (ja)
  • 清浄行 (ja)
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