『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。1720年(享保5年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。 1720年(享保5年)10月14日夜に、網島の大長寺 (大阪市)で、大阪天満お前町の小売紙商紙屋治兵衛と、曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦小春とが、情死を遂げた心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、「道行名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されている。 「天網島」とは、「天網恢々、疎にして洩らさず(てんもうかいかい、そにしてもらさず)」(中国、老子では「天網恢々、疎にして失わず」(天が悪人を捕まえるために張り巡らした網は、目が粗いが、悪人を取り逃がさない)という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。

Property Value
dbo:abstract
  • 『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。1720年(享保5年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。 1720年(享保5年)10月14日夜に、網島の大長寺 (大阪市)で、大阪天満お前町の小売紙商紙屋治兵衛と、曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦小春とが、情死を遂げた心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、「道行名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されている。 「天網島」とは、「天網恢々、疎にして洩らさず(てんもうかいかい、そにしてもらさず)」(中国、老子では「天網恢々、疎にして失わず」(天が悪人を捕まえるために張り巡らした網は、目が粗いが、悪人を取り逃がさない)という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。 (ja)
  • 『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。1720年(享保5年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。 1720年(享保5年)10月14日夜に、網島の大長寺 (大阪市)で、大阪天満お前町の小売紙商紙屋治兵衛と、曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦小春とが、情死を遂げた心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、「道行名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されている。 「天網島」とは、「天網恢々、疎にして洩らさず(てんもうかいかい、そにしてもらさず)」(中国、老子では「天網恢々、疎にして失わず」(天が悪人を捕まえるために張り巡らした網は、目が粗いが、悪人を取り逃がさない)という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。 (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageExternalLink
dbo:wikiPageID
  • 527237 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 5944 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 91868209 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-en:date
  • 0001-01-01 (xsd:gMonthDay)
prop-en:section
  • 1 (xsd:integer)
prop-en:wikiPageUsesTemplate
dct:subject
rdfs:comment
  • 『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。1720年(享保5年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。 1720年(享保5年)10月14日夜に、網島の大長寺 (大阪市)で、大阪天満お前町の小売紙商紙屋治兵衛と、曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦小春とが、情死を遂げた心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、「道行名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されている。 「天網島」とは、「天網恢々、疎にして洩らさず(てんもうかいかい、そにしてもらさず)」(中国、老子では「天網恢々、疎にして失わず」(天が悪人を捕まえるために張り巡らした網は、目が粗いが、悪人を取り逃がさない)という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。 (ja)
  • 『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。1720年(享保5年)12月6日、大坂竹本座で初演。全三段の世話物。 1720年(享保5年)10月14日夜に、網島の大長寺 (大阪市)で、大阪天満お前町の小売紙商紙屋治兵衛と、曾根崎新地紀伊の国屋の妓婦小春とが、情死を遂げた心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、「道行名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されている。 「天網島」とは、「天網恢々、疎にして洩らさず(てんもうかいかい、そにしてもらさず)」(中国、老子では「天網恢々、疎にして失わず」(天が悪人を捕まえるために張り巡らした網は、目が粗いが、悪人を取り逃がさない)という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。 (ja)
rdfs:label
  • 心中天網島 (ja)
  • 心中天網島 (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageDisambiguates of
is dbo:wikiPageRedirects of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of