アモリオンの戦い(アモリオンのたたかい)は、838年8月中旬にアッバース朝軍によって小アジア(アナトリア)の重要な東ローマ帝国の都市であったアモリオンが攻略され、徹底的な略奪と破壊を受けた事件である。 この戦いへと至る戦役はアラブと東ローマ帝国の長い戦争の歴史の中でも主要な出来事の一つであった。前年の837年に東ローマ皇帝テオフィロス(在位:829年 - 842年)がアッバース朝からほとんど抵抗を受けることなくアラブ側の国境地帯を襲撃し、これに対する報復としてカリフのムウタスィム(在位:833年 - 842年)が自ら軍隊を率いて反撃に乗り出した。ムウタスィムは当時の東ローマ帝国の王家であったアモリア朝の発祥の地であり、帝国内で最大かつ最も重要な都市の一つであったことを理由に小アジア西部のアモリオンを標的とした。カリフは非常に大規模な軍隊を招集し、部隊を二手に分け、小アジアの北東部と南部から侵攻した。北東方面の部隊はテオフィロスが率いる東ローマ軍をアンゼンで破り、東ローマ帝国が領有する小アジアの深部への侵入を続け、都市が放棄されていたアンキュラで双方の部隊が集結した。アンキュラを略奪した後、アッバース朝軍は南方へ向かい、8月1日にアモリオンに到達した。テオフィロスはペルシア人部隊の反乱に直面し、さらには自身の戦死の噂によって新しい皇帝が擁立される危険が生じたためにコンスタンティノープルへの帰還を余儀なくされ、アモリオンを支援することができなかった。

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  • アモリオンの戦い(アモリオンのたたかい)は、838年8月中旬にアッバース朝軍によって小アジア(アナトリア)の重要な東ローマ帝国の都市であったアモリオンが攻略され、徹底的な略奪と破壊を受けた事件である。 この戦いへと至る戦役はアラブと東ローマ帝国の長い戦争の歴史の中でも主要な出来事の一つであった。前年の837年に東ローマ皇帝テオフィロス(在位:829年 - 842年)がアッバース朝からほとんど抵抗を受けることなくアラブ側の国境地帯を襲撃し、これに対する報復としてカリフのムウタスィム(在位:833年 - 842年)が自ら軍隊を率いて反撃に乗り出した。ムウタスィムは当時の東ローマ帝国の王家であったアモリア朝の発祥の地であり、帝国内で最大かつ最も重要な都市の一つであったことを理由に小アジア西部のアモリオンを標的とした。カリフは非常に大規模な軍隊を招集し、部隊を二手に分け、小アジアの北東部と南部から侵攻した。北東方面の部隊はテオフィロスが率いる東ローマ軍をアンゼンで破り、東ローマ帝国が領有する小アジアの深部への侵入を続け、都市が放棄されていたアンキュラで双方の部隊が集結した。アンキュラを略奪した後、アッバース朝軍は南方へ向かい、8月1日にアモリオンに到達した。テオフィロスはペルシア人部隊の反乱に直面し、さらには自身の戦死の噂によって新しい皇帝が擁立される危険が生じたためにコンスタンティノープルへの帰還を余儀なくされ、アモリオンを支援することができなかった。 アモリオンは強固な要塞であり、強力な守備隊を擁していたものの、反逆者が城壁の弱点となっている箇所を敵側へ漏洩した。アッバース朝軍はその場所に攻撃を集中させ、城壁の破壊に成功した。そして破壊された城壁の場所を受け持っていた東ローマ軍の指揮官のボイディツェスが、おそらく自軍を裏切る意図を持って上官に通知することなく単独でカリフとの交渉を試み、警備体制を解いたまま自身の持ち場から立ち去った。アラブ軍はこれを利用して城内に侵入し、都市の占領に成功した。アモリオンは組織的な破壊を受け、二度と以前の繁栄を取り戻すことはなかった。住民の多くは虐殺され、残った者は奴隷として都市を追われた。生存者のほとんどは841年に停戦協定が結ばれた後に解放されたが、高い地位にあった公職者は当時アッバース朝の首都であったサーマッラーに連行され、数年後、イスラームへの改宗を拒否して処刑された。処刑された人々はとして知られるようになった。 東ローマ帝国にとってアモリオンの破壊は大惨事であり、テオフィロス個人にとっても大きな打撃であっただけでなく、東ローマ人にとって後に文学作品の中で記されることになる精神的な痛手となる出来事でもあった。この戦役が東ローマ帝国の軍事面に与えた影響は限定的であったものの、テオフィロスが熱心に支持していたイコノクラスム(聖像破壊運動)の神学的な教義は完全に信用を失った。イコノクラスムの正当性は軍事的な成功に大きく依存していたため、アモリオンの陥落は、テオフィロスが842年に死去した直後のイコノクラスムの放棄に決定的な影響を与えることになった。 (ja)
  • アモリオンの戦い(アモリオンのたたかい)は、838年8月中旬にアッバース朝軍によって小アジア(アナトリア)の重要な東ローマ帝国の都市であったアモリオンが攻略され、徹底的な略奪と破壊を受けた事件である。 この戦いへと至る戦役はアラブと東ローマ帝国の長い戦争の歴史の中でも主要な出来事の一つであった。前年の837年に東ローマ皇帝テオフィロス(在位:829年 - 842年)がアッバース朝からほとんど抵抗を受けることなくアラブ側の国境地帯を襲撃し、これに対する報復としてカリフのムウタスィム(在位:833年 - 842年)が自ら軍隊を率いて反撃に乗り出した。ムウタスィムは当時の東ローマ帝国の王家であったアモリア朝の発祥の地であり、帝国内で最大かつ最も重要な都市の一つであったことを理由に小アジア西部のアモリオンを標的とした。カリフは非常に大規模な軍隊を招集し、部隊を二手に分け、小アジアの北東部と南部から侵攻した。北東方面の部隊はテオフィロスが率いる東ローマ軍をアンゼンで破り、東ローマ帝国が領有する小アジアの深部への侵入を続け、都市が放棄されていたアンキュラで双方の部隊が集結した。アンキュラを略奪した後、アッバース朝軍は南方へ向かい、8月1日にアモリオンに到達した。テオフィロスはペルシア人部隊の反乱に直面し、さらには自身の戦死の噂によって新しい皇帝が擁立される危険が生じたためにコンスタンティノープルへの帰還を余儀なくされ、アモリオンを支援することができなかった。 アモリオンは強固な要塞であり、強力な守備隊を擁していたものの、反逆者が城壁の弱点となっている箇所を敵側へ漏洩した。アッバース朝軍はその場所に攻撃を集中させ、城壁の破壊に成功した。そして破壊された城壁の場所を受け持っていた東ローマ軍の指揮官のボイディツェスが、おそらく自軍を裏切る意図を持って上官に通知することなく単独でカリフとの交渉を試み、警備体制を解いたまま自身の持ち場から立ち去った。アラブ軍はこれを利用して城内に侵入し、都市の占領に成功した。アモリオンは組織的な破壊を受け、二度と以前の繁栄を取り戻すことはなかった。住民の多くは虐殺され、残った者は奴隷として都市を追われた。生存者のほとんどは841年に停戦協定が結ばれた後に解放されたが、高い地位にあった公職者は当時アッバース朝の首都であったサーマッラーに連行され、数年後、イスラームへの改宗を拒否して処刑された。処刑された人々はとして知られるようになった。 東ローマ帝国にとってアモリオンの破壊は大惨事であり、テオフィロス個人にとっても大きな打撃であっただけでなく、東ローマ人にとって後に文学作品の中で記されることになる精神的な痛手となる出来事でもあった。この戦役が東ローマ帝国の軍事面に与えた影響は限定的であったものの、テオフィロスが熱心に支持していたイコノクラスム(聖像破壊運動)の神学的な教義は完全に信用を失った。イコノクラスムの正当性は軍事的な成功に大きく依存していたため、アモリオンの陥落は、テオフィロスが842年に死去した直後のイコノクラスムの放棄に決定的な影響を与えることになった。 (ja)
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  • アラブ軍によるアモリオンの包囲を描いた『』の細密画 (ja)
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  • 軍人と市民合わせて30,000人から70,000人 (ja)
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  • 「天国の門が開かれ、大地が新たな衣装をまとって現れる栄誉の中の勝利。 おお、アンムーリヤの戦いの日よ、我々の数々の希望が蜂蜜のように甘いミルクで溢れかえっているあなたの許から戻ってきた。 あなたは有り余る程の勢いでイスラームの子供たちのために富を残し、多神教を奉ずる者たちとその住処を衰亡の淵に置き去った。」 アブー・タンマームの『アンムーリヤ征服の頌歌』からの抜粋(12行目から14行目) (ja)
  • 「天国の門が開かれ、大地が新たな衣装をまとって現れる栄誉の中の勝利。 おお、アンムーリヤの戦いの日よ、我々の数々の希望が蜂蜜のように甘いミルクで溢れかえっているあなたの許から戻ってきた。 あなたは有り余る程の勢いでイスラームの子供たちのために富を残し、多神教を奉ずる者たちとその住処を衰亡の淵に置き去った。」 アブー・タンマームの『アンムーリヤ征服の頌歌』からの抜粋(12行目から14行目) (ja)
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  • アモリオンの戦い(アモリオンのたたかい)は、838年8月中旬にアッバース朝軍によって小アジア(アナトリア)の重要な東ローマ帝国の都市であったアモリオンが攻略され、徹底的な略奪と破壊を受けた事件である。 この戦いへと至る戦役はアラブと東ローマ帝国の長い戦争の歴史の中でも主要な出来事の一つであった。前年の837年に東ローマ皇帝テオフィロス(在位:829年 - 842年)がアッバース朝からほとんど抵抗を受けることなくアラブ側の国境地帯を襲撃し、これに対する報復としてカリフのムウタスィム(在位:833年 - 842年)が自ら軍隊を率いて反撃に乗り出した。ムウタスィムは当時の東ローマ帝国の王家であったアモリア朝の発祥の地であり、帝国内で最大かつ最も重要な都市の一つであったことを理由に小アジア西部のアモリオンを標的とした。カリフは非常に大規模な軍隊を招集し、部隊を二手に分け、小アジアの北東部と南部から侵攻した。北東方面の部隊はテオフィロスが率いる東ローマ軍をアンゼンで破り、東ローマ帝国が領有する小アジアの深部への侵入を続け、都市が放棄されていたアンキュラで双方の部隊が集結した。アンキュラを略奪した後、アッバース朝軍は南方へ向かい、8月1日にアモリオンに到達した。テオフィロスはペルシア人部隊の反乱に直面し、さらには自身の戦死の噂によって新しい皇帝が擁立される危険が生じたためにコンスタンティノープルへの帰還を余儀なくされ、アモリオンを支援することができなかった。 (ja)
  • アモリオンの戦い(アモリオンのたたかい)は、838年8月中旬にアッバース朝軍によって小アジア(アナトリア)の重要な東ローマ帝国の都市であったアモリオンが攻略され、徹底的な略奪と破壊を受けた事件である。 この戦いへと至る戦役はアラブと東ローマ帝国の長い戦争の歴史の中でも主要な出来事の一つであった。前年の837年に東ローマ皇帝テオフィロス(在位:829年 - 842年)がアッバース朝からほとんど抵抗を受けることなくアラブ側の国境地帯を襲撃し、これに対する報復としてカリフのムウタスィム(在位:833年 - 842年)が自ら軍隊を率いて反撃に乗り出した。ムウタスィムは当時の東ローマ帝国の王家であったアモリア朝の発祥の地であり、帝国内で最大かつ最も重要な都市の一つであったことを理由に小アジア西部のアモリオンを標的とした。カリフは非常に大規模な軍隊を招集し、部隊を二手に分け、小アジアの北東部と南部から侵攻した。北東方面の部隊はテオフィロスが率いる東ローマ軍をアンゼンで破り、東ローマ帝国が領有する小アジアの深部への侵入を続け、都市が放棄されていたアンキュラで双方の部隊が集結した。アンキュラを略奪した後、アッバース朝軍は南方へ向かい、8月1日にアモリオンに到達した。テオフィロスはペルシア人部隊の反乱に直面し、さらには自身の戦死の噂によって新しい皇帝が擁立される危険が生じたためにコンスタンティノープルへの帰還を余儀なくされ、アモリオンを支援することができなかった。 (ja)
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  • アモリオンの戦い (ja)
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