雲林寺(うんりんじ)は、岐阜県中津川市苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天龍山。苗木藩主歴代の菩提寺であったが、廃仏毀釈により廃寺となった。 慶長19年(1614年)に苗木藩初代藩主の遠山友政が、天正2年(1574年)の武田勝頼の侵攻時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、帰依していた八百津町の大仙寺(正傳寺という説もある)の維天継縦を開山として招請したが、維天は高齢であったため関市にある梅龍寺8世(加治田龍福寺2世)の夬雲玄孚を推挙した。 そこで、元和元年(1615年)に夬雲玄孚を開山として開かれている。寺号は遠山友政の法名にちなんでいる。その後、苗木藩から寺領を与えられるなど篤く保護され、塔頭として正岳院と寿昌院があったほか、苗木藩領内に18の末寺を持って繁栄していた。 江戸時代末から明治初頭にかけて苗木藩では、藩士で復古神道主義者の青山景通・直通親子が主導する先鋭化した廃仏毀釈運動が起きた。藩主菩提寺の雲林寺も廃寺となることが決まり、17世のに雲林寺を廃寺とし、教諭として雇用するとの方針が藩から伝えられた。剛宗宗載はこれに反対したものの、 雲林寺跡地には苗木遠山氏歴代の墓が残されており、『苗木遠山家廟所』として中津川市の史跡に指定されている。

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  • 雲林寺(うんりんじ)は、岐阜県中津川市苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天龍山。苗木藩主歴代の菩提寺であったが、廃仏毀釈により廃寺となった。 慶長19年(1614年)に苗木藩初代藩主の遠山友政が、天正2年(1574年)の武田勝頼の侵攻時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、帰依していた八百津町の大仙寺(正傳寺という説もある)の維天継縦を開山として招請したが、維天は高齢であったため関市にある梅龍寺8世(加治田龍福寺2世)の夬雲玄孚を推挙した。 そこで、元和元年(1615年)に夬雲玄孚を開山として開かれている。寺号は遠山友政の法名にちなんでいる。その後、苗木藩から寺領を与えられるなど篤く保護され、塔頭として正岳院と寿昌院があったほか、苗木藩領内に18の末寺を持って繁栄していた。 江戸時代末から明治初頭にかけて苗木藩では、藩士で復古神道主義者の青山景通・直通親子が主導する先鋭化した廃仏毀釈運動が起きた。藩主菩提寺の雲林寺も廃寺となることが決まり、17世のに雲林寺を廃寺とし、教諭として雇用するとの方針が藩から伝えられた。剛宗宗載はこれに反対したものの、 明治3年(1870年)に廃寺となり、寺の本尊や什器などは幕府領であったため苗木藩の廃仏毀釈が及ばなかった下野村の法界寺に移された。その後、雲林寺の本尊である地蔵菩薩は下呂市の金錫山地蔵寺に伝わり、岐阜県の文化財に指定されている。 雲林寺跡地には苗木遠山氏歴代の墓が残されており、『苗木遠山家廟所』として中津川市の史跡に指定されている。 (ja)
  • 雲林寺(うんりんじ)は、岐阜県中津川市苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天龍山。苗木藩主歴代の菩提寺であったが、廃仏毀釈により廃寺となった。 慶長19年(1614年)に苗木藩初代藩主の遠山友政が、天正2年(1574年)の武田勝頼の侵攻時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、帰依していた八百津町の大仙寺(正傳寺という説もある)の維天継縦を開山として招請したが、維天は高齢であったため関市にある梅龍寺8世(加治田龍福寺2世)の夬雲玄孚を推挙した。 そこで、元和元年(1615年)に夬雲玄孚を開山として開かれている。寺号は遠山友政の法名にちなんでいる。その後、苗木藩から寺領を与えられるなど篤く保護され、塔頭として正岳院と寿昌院があったほか、苗木藩領内に18の末寺を持って繁栄していた。 江戸時代末から明治初頭にかけて苗木藩では、藩士で復古神道主義者の青山景通・直通親子が主導する先鋭化した廃仏毀釈運動が起きた。藩主菩提寺の雲林寺も廃寺となることが決まり、17世のに雲林寺を廃寺とし、教諭として雇用するとの方針が藩から伝えられた。剛宗宗載はこれに反対したものの、 明治3年(1870年)に廃寺となり、寺の本尊や什器などは幕府領であったため苗木藩の廃仏毀釈が及ばなかった下野村の法界寺に移された。その後、雲林寺の本尊である地蔵菩薩は下呂市の金錫山地蔵寺に伝わり、岐阜県の文化財に指定されている。 雲林寺跡地には苗木遠山氏歴代の墓が残されており、『苗木遠山家廟所』として中津川市の史跡に指定されている。 (ja)
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  • 雲林寺(うんりんじ)は、岐阜県中津川市苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天龍山。苗木藩主歴代の菩提寺であったが、廃仏毀釈により廃寺となった。 慶長19年(1614年)に苗木藩初代藩主の遠山友政が、天正2年(1574年)の武田勝頼の侵攻時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、帰依していた八百津町の大仙寺(正傳寺という説もある)の維天継縦を開山として招請したが、維天は高齢であったため関市にある梅龍寺8世(加治田龍福寺2世)の夬雲玄孚を推挙した。 そこで、元和元年(1615年)に夬雲玄孚を開山として開かれている。寺号は遠山友政の法名にちなんでいる。その後、苗木藩から寺領を与えられるなど篤く保護され、塔頭として正岳院と寿昌院があったほか、苗木藩領内に18の末寺を持って繁栄していた。 江戸時代末から明治初頭にかけて苗木藩では、藩士で復古神道主義者の青山景通・直通親子が主導する先鋭化した廃仏毀釈運動が起きた。藩主菩提寺の雲林寺も廃寺となることが決まり、17世のに雲林寺を廃寺とし、教諭として雇用するとの方針が藩から伝えられた。剛宗宗載はこれに反対したものの、 雲林寺跡地には苗木遠山氏歴代の墓が残されており、『苗木遠山家廟所』として中津川市の史跡に指定されている。 (ja)
  • 雲林寺(うんりんじ)は、岐阜県中津川市苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天龍山。苗木藩主歴代の菩提寺であったが、廃仏毀釈により廃寺となった。 慶長19年(1614年)に苗木藩初代藩主の遠山友政が、天正2年(1574年)の武田勝頼の侵攻時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、帰依していた八百津町の大仙寺(正傳寺という説もある)の維天継縦を開山として招請したが、維天は高齢であったため関市にある梅龍寺8世(加治田龍福寺2世)の夬雲玄孚を推挙した。 そこで、元和元年(1615年)に夬雲玄孚を開山として開かれている。寺号は遠山友政の法名にちなんでいる。その後、苗木藩から寺領を与えられるなど篤く保護され、塔頭として正岳院と寿昌院があったほか、苗木藩領内に18の末寺を持って繁栄していた。 江戸時代末から明治初頭にかけて苗木藩では、藩士で復古神道主義者の青山景通・直通親子が主導する先鋭化した廃仏毀釈運動が起きた。藩主菩提寺の雲林寺も廃寺となることが決まり、17世のに雲林寺を廃寺とし、教諭として雇用するとの方針が藩から伝えられた。剛宗宗載はこれに反対したものの、 雲林寺跡地には苗木遠山氏歴代の墓が残されており、『苗木遠山家廟所』として中津川市の史跡に指定されている。 (ja)
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  • 雲林寺 (中津川市) (ja)
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