矢野 二郎(やの じろう、1845年2月21日(弘化2年1月15日) - 1906年(明治39年)6月17日)は明治時代の日本の外交官、教育者、実業家。旧幕臣。初めは次郎兵衛、ついで次郎と名乗ったが、自ら好んで「二郎」と署名し晩年に至ってこれを通称とした。 前半生は新進の洋学者として旧江戸幕府および明治新政府において外交・通商などの実務に従事し、30代以降は一橋大学の前身である商法講習所・東京商業学校・高等商業学校の草創期の校長を長く務め、日本におけるの開拓者となった。また共立女子大学の創設者の一人であることでも知られている。