四侯会議(しこうかいぎ)は、慶応3年(1867年)5月、京都において設置された諸侯会議である。有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。幕末に流行した公議政体論の流れの中で、薩摩藩の主導のもとに成立した会議であり、朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。薩摩藩はこれを機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、慶喜との政局に敗れ、ごく短期間で挫折した。この結果、薩摩は完全に倒幕に舵を切ることとなる。 ※本項における日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。