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- 二条 藤子(にじょう とうし/ふじこ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女官・歌人。歌聖藤原定家嫡系子孫で、二条派当主の二条為定の妹。後醍醐天皇中宮西園寺禧子の中宮宣旨(筆頭女房)。また、後醍醐の側室ともなり、南朝征西大将軍の懐良親王をもうけた。懐良は明から日本国王に冊封されたため、藤子は明史における日本の国母でもある。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集。 二条藤子は13世紀末、貴族・歌人の二条為道の娘として誕生したが、父は夭折した。長じて、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)ごろまで、関白二条道平に女房(上級女性使用人)として仕えた。元応元年(1319年)、中宮に冊立された西園寺禧子の宣旨に抜擢された。中宮宣旨とは、中宮仕えの「宮の女房」を率いる最高職で、いわば中宮の第一秘書とも言える腹心であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍(女官長)にほぼ相当する職責を持ち、家格・知性・実務・教養いずれも傑出した女性から選ばれた。この頃、藤子は女性の官僚として最高位の一つに登っただけではなく、元応2年(1320年)に奏覧された『続千載和歌集』に1首が入集し、勅撰歌人となった。 藤子は、二条派の大歌人にして後醍醐の親王時代の正妃である二条為子からは姪に当たる。早逝した為子の縁者ということもあってか、後醍醐からは中宮禧子および同僚で中宮内侍の阿野廉子に次ぐ寵愛を受けた。元徳元年(1329年)ごろ、藤子は後醍醐との間に、懐良親王をもうけた。また、中宮お抱えの官僚である宣旨ながら、正規の妃である女御(中宮の次位)相当の位階である従三位に叙された。後醍醐と鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331年 - 1333年)が始まり、元弘2年/正慶元年(1332年)に後醍醐が隠岐に流されると、主君の禧子同様、落飾(出家)して仏門に入った。南北朝の内乱(1336年 - 1392年)が始まると、延元3年/暦応元年(1338年)に、皇子の懐良は推定数え10歳で征西大将軍に任じられ、九州へ出征した。これが母子の今生の別れとなった。室町幕府の内紛である観応の擾乱の最中、正平6年/観応2年(1351年)春に、藤子は病により数え52歳以上で薨去した。 慈愛に溢れ心優しい人物で、死の床で詠んだ辞世の歌でまで、九州で戦う息子の身を案じ続けた。子の懐良もまた幼くして別れた父母を思慕し続け、冥福を祈ってたびたび写経などの奉納を行った。懐良の生存が確認できる現存最後の史料は、懐良が藤子の三十一回忌のために奉納した宝篋印塔である。藤子と後醍醐の霊牌は、懐良の菩提寺である熊本県八代市に設置され、親子三人揃って供養を受けている。 (ja)
- 二条 藤子(にじょう とうし/ふじこ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女官・歌人。歌聖藤原定家嫡系子孫で、二条派当主の二条為定の妹。後醍醐天皇中宮西園寺禧子の中宮宣旨(筆頭女房)。また、後醍醐の側室ともなり、南朝征西大将軍の懐良親王をもうけた。懐良は明から日本国王に冊封されたため、藤子は明史における日本の国母でもある。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集。 二条藤子は13世紀末、貴族・歌人の二条為道の娘として誕生したが、父は夭折した。長じて、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)ごろまで、関白二条道平に女房(上級女性使用人)として仕えた。元応元年(1319年)、中宮に冊立された西園寺禧子の宣旨に抜擢された。中宮宣旨とは、中宮仕えの「宮の女房」を率いる最高職で、いわば中宮の第一秘書とも言える腹心であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍(女官長)にほぼ相当する職責を持ち、家格・知性・実務・教養いずれも傑出した女性から選ばれた。この頃、藤子は女性の官僚として最高位の一つに登っただけではなく、元応2年(1320年)に奏覧された『続千載和歌集』に1首が入集し、勅撰歌人となった。 藤子は、二条派の大歌人にして後醍醐の親王時代の正妃である二条為子からは姪に当たる。早逝した為子の縁者ということもあってか、後醍醐からは中宮禧子および同僚で中宮内侍の阿野廉子に次ぐ寵愛を受けた。元徳元年(1329年)ごろ、藤子は後醍醐との間に、懐良親王をもうけた。また、中宮お抱えの官僚である宣旨ながら、正規の妃である女御(中宮の次位)相当の位階である従三位に叙された。後醍醐と鎌倉幕府との戦い元弘の乱(1331年 - 1333年)が始まり、元弘2年/正慶元年(1332年)に後醍醐が隠岐に流されると、主君の禧子同様、落飾(出家)して仏門に入った。南北朝の内乱(1336年 - 1392年)が始まると、延元3年/暦応元年(1338年)に、皇子の懐良は推定数え10歳で征西大将軍に任じられ、九州へ出征した。これが母子の今生の別れとなった。室町幕府の内紛である観応の擾乱の最中、正平6年/観応2年(1351年)春に、藤子は病により数え52歳以上で薨去した。 慈愛に溢れ心優しい人物で、死の床で詠んだ辞世の歌でまで、九州で戦う息子の身を案じ続けた。子の懐良もまた幼くして別れた父母を思慕し続け、冥福を祈ってたびたび写経などの奉納を行った。懐良の生存が確認できる現存最後の史料は、懐良が藤子の三十一回忌のために奉納した宝篋印塔である。藤子と後醍醐の霊牌は、懐良の菩提寺である熊本県八代市に設置され、親子三人揃って供養を受けている。 (ja)
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- 『新千載和歌集』雑上・1691 (ja)
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- やまひかぎりに侍ける春、三月の廿日あまり迄庭の花おそく咲侍けるによめる (ja)
- 折しもあれ 心つくしに またれずは ことしばかりの 花は見てまし(大意:ああ、こんな時に…。心を筑紫にいるあの子に馳せて、悩みの心を尽くして死に逝くこの時でなかったならば、今生で最後の桜を心のどかに観ることができたでしょうに) (ja)
- やまひかぎりに侍ける春、三月の廿日あまり迄庭の花おそく咲侍けるによめる (ja)
- 折しもあれ 心つくしに またれずは ことしばかりの 花は見てまし(大意:ああ、こんな時に…。心を筑紫にいるあの子に馳せて、悩みの心を尽くして死に逝くこの時でなかったならば、今生で最後の桜を心のどかに観ることができたでしょうに) (ja)
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- 永仁元年(1293年)以降 - 正安2年(1300年)以前 (ja)
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- 霊牌:肥後国悟真寺(熊本県八代市) (ja)
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- 藤原北家御子左流二条家 (ja)
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- 日本国国母(明朝) (ja)
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- 中宮宣旨(中宮西園寺禧子の筆頭女房) (ja)
- 二条関白女房(関白二条道平の女房) (ja)
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- 不明(飛鳥井雅有女の飛鳥井経子?) (ja)
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- 後醍醐天皇側室・日本国王良懐母 (ja)
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- 二条 藤子(にじょう とうし/ふじこ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女官・歌人。歌聖藤原定家嫡系子孫で、二条派当主の二条為定の妹。後醍醐天皇中宮西園寺禧子の中宮宣旨(筆頭女房)。また、後醍醐の側室ともなり、南朝征西大将軍の懐良親王をもうけた。懐良は明から日本国王に冊封されたため、藤子は明史における日本の国母でもある。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集。 二条藤子は13世紀末、貴族・歌人の二条為道の娘として誕生したが、父は夭折した。長じて、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)ごろまで、関白二条道平に女房(上級女性使用人)として仕えた。元応元年(1319年)、中宮に冊立された西園寺禧子の宣旨に抜擢された。中宮宣旨とは、中宮仕えの「宮の女房」を率いる最高職で、いわば中宮の第一秘書とも言える腹心であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍(女官長)にほぼ相当する職責を持ち、家格・知性・実務・教養いずれも傑出した女性から選ばれた。この頃、藤子は女性の官僚として最高位の一つに登っただけではなく、元応2年(1320年)に奏覧された『続千載和歌集』に1首が入集し、勅撰歌人となった。 (ja)
- 二条 藤子(にじょう とうし/ふじこ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての女官・歌人。歌聖藤原定家嫡系子孫で、二条派当主の二条為定の妹。後醍醐天皇中宮西園寺禧子の中宮宣旨(筆頭女房)。また、後醍醐の側室ともなり、南朝征西大将軍の懐良親王をもうけた。懐良は明から日本国王に冊封されたため、藤子は明史における日本の国母でもある。『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に8首が入集。 二条藤子は13世紀末、貴族・歌人の二条為道の娘として誕生したが、父は夭折した。長じて、正和5年(1316年)から文保2年(1318年)ごろまで、関白二条道平に女房(上級女性使用人)として仕えた。元応元年(1319年)、中宮に冊立された西園寺禧子の宣旨に抜擢された。中宮宣旨とは、中宮仕えの「宮の女房」を率いる最高職で、いわば中宮の第一秘書とも言える腹心であり、天皇に仕える「上の女房」の長である典侍(女官長)にほぼ相当する職責を持ち、家格・知性・実務・教養いずれも傑出した女性から選ばれた。この頃、藤子は女性の官僚として最高位の一つに登っただけではなく、元応2年(1320年)に奏覧された『続千載和歌集』に1首が入集し、勅撰歌人となった。 (ja)
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