本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、天皇・皇族の系図。皇室系図の代表的存在であるとされる。紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜とも。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した。当初おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また本来は満季の祖父の公定編纂の『尊卑分脈』と併せて一対としていたらしい。名の由来は、中国南宋の『歴代帝王紹運図』。 内容は神代に始まり、天照大神以下の5代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している。 後世には、文亀2年(1502年)には三条西実隆による増補が行われたのをはじめ、書写・刊行されるたびごとに当時の天皇・皇族まで増追補が行われ、写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、数ある皇室系図の中で権威があるものとされる。刊本では群書類従本が最も著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている。

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  • 本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、天皇・皇族の系図。皇室系図の代表的存在であるとされる。紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜とも。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した。当初おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また本来は満季の祖父の公定編纂の『尊卑分脈』と併せて一対としていたらしい。名の由来は、中国南宋の『歴代帝王紹運図』。 内容は神代に始まり、天照大神以下の5代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している。 後世には、文亀2年(1502年)には三条西実隆による増補が行われたのをはじめ、書写・刊行されるたびごとに当時の天皇・皇族まで増追補が行われ、写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、数ある皇室系図の中で権威があるものとされる。刊本では群書類従本が最も著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている。 ただし現在の皇統譜と異なり、神功皇后や北朝の光厳院・光明院・崇光院・後光厳院・後円融院を天皇に準じた扱いとする一方、廃帝の弘文天皇や仲恭天皇、南朝の後村上院・長慶院・後亀山院を歴代外しており、北朝正統に依拠している。現在の「皇統譜」は、明治維新後に再び南北朝正閏論が活発化して以降に、南朝正統論に基づく南朝天皇を歴代に加えている。元老院が編纂した『纂輯御系図』(明治10年(1877年)初版)では、本系図を基礎にしつつ諸本を校合して、更なる信憑性の向上が図られているとされる。 なお、天明5年(1785年)にの著した『南朝(皇胤)紹運録』(『南朝編年記略』の付録)は全くの別系図である。 (ja)
  • 本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、天皇・皇族の系図。皇室系図の代表的存在であるとされる。紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜とも。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した。当初おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また本来は満季の祖父の公定編纂の『尊卑分脈』と併せて一対としていたらしい。名の由来は、中国南宋の『歴代帝王紹運図』。 内容は神代に始まり、天照大神以下の5代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している。 後世には、文亀2年(1502年)には三条西実隆による増補が行われたのをはじめ、書写・刊行されるたびごとに当時の天皇・皇族まで増追補が行われ、写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、数ある皇室系図の中で権威があるものとされる。刊本では群書類従本が最も著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている。 ただし現在の皇統譜と異なり、神功皇后や北朝の光厳院・光明院・崇光院・後光厳院・後円融院を天皇に準じた扱いとする一方、廃帝の弘文天皇や仲恭天皇、南朝の後村上院・長慶院・後亀山院を歴代外しており、北朝正統に依拠している。現在の「皇統譜」は、明治維新後に再び南北朝正閏論が活発化して以降に、南朝正統論に基づく南朝天皇を歴代に加えている。元老院が編纂した『纂輯御系図』(明治10年(1877年)初版)では、本系図を基礎にしつつ諸本を校合して、更なる信憑性の向上が図られているとされる。 なお、天明5年(1785年)にの著した『南朝(皇胤)紹運録』(『南朝編年記略』の付録)は全くの別系図である。 (ja)
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  • 本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、天皇・皇族の系図。皇室系図の代表的存在であるとされる。紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜とも。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した。当初おそらくは称光院までの系譜が編纂され、また本来は満季の祖父の公定編纂の『尊卑分脈』と併せて一対としていたらしい。名の由来は、中国南宋の『歴代帝王紹運図』。 内容は神代に始まり、天照大神以下の5代を掲げ、神武天皇以下の歴代をそれに続ける。歴代天皇を諡号または院号とともに中心に据え、代数・生母・諱・在位年数や立太子/践祚/即位/譲位/崩御の年月日・御陵などの事項を列記する。その他父子・兄弟などの皇族も続柄で系線で結び、右から左に綴る横系図の形式を採用し、生母・略歴・極位・極官・薨年などの注記(尻付)を施している。 後世には、文亀2年(1502年)には三条西実隆による増補が行われたのをはじめ、書写・刊行されるたびごとに当時の天皇・皇族まで増追補が行われ、写本や刊本の間でも内容に異同が多いが、数ある皇室系図の中で権威があるものとされる。刊本では群書類従本が最も著名で、昭和天皇までの系譜が書き継がれている。 (ja)
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