フランクとモンゴルの同盟はフランク人 (この場合、フランク王国に由来を持ち、西方教会、特にローマカトリック教会に属する西ヨーロッパの諸国と、それら諸国が起こした十字軍によって建国されたレヴァント地域の十字軍国家 (ウトラメール)諸国のことを指す) とモンゴル人の間で模索された協力関係を言う。13世紀、彼らの共通の敵であるイスラム国家に対抗するため、フランク人による十字軍国家とモンゴルの帝国の間では様々なリーダーによって何度かの同盟に向けた試みが行われた。この当時、モンゴル人は既にキリスト教を一部受容しており、モンゴル宮廷に多くの有力なネストリウス派キリスト教徒が存在していたことから、このような同盟への動きは当然の成り行きであった。要因の一つには、伝説として永らく語り継がれていたプレスター・ジョン (多くの信者がある日聖地に十字軍の援軍として現れると信じていた、東方の神秘的王国の王) の伝説の存在がある。フランク (前出の通り、十字軍研究の分野では西欧諸国とそれらのレヴァント十字軍によって成立した国家のことを指す) には東方からの援軍について、提案を受け入れ易い背景が整っていたと言える。フランク人とモンゴル人は、イスラム教徒を共通の敵としていたが、数十年の間に多くの文書、贈り物、特使が交わされたにもかかわらず、しばしば提案された同盟締結は、ついに有効な同盟実現には至らなかった。

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  • フランクとモンゴルの同盟はフランク人 (この場合、フランク王国に由来を持ち、西方教会、特にローマカトリック教会に属する西ヨーロッパの諸国と、それら諸国が起こした十字軍によって建国されたレヴァント地域の十字軍国家 (ウトラメール)諸国のことを指す) とモンゴル人の間で模索された協力関係を言う。13世紀、彼らの共通の敵であるイスラム国家に対抗するため、フランク人による十字軍国家とモンゴルの帝国の間では様々なリーダーによって何度かの同盟に向けた試みが行われた。この当時、モンゴル人は既にキリスト教を一部受容しており、モンゴル宮廷に多くの有力なネストリウス派キリスト教徒が存在していたことから、このような同盟への動きは当然の成り行きであった。要因の一つには、伝説として永らく語り継がれていたプレスター・ジョン (多くの信者がある日聖地に十字軍の援軍として現れると信じていた、東方の神秘的王国の王) の伝説の存在がある。フランク (前出の通り、十字軍研究の分野では西欧諸国とそれらのレヴァント十字軍によって成立した国家のことを指す) には東方からの援軍について、提案を受け入れ易い背景が整っていたと言える。フランク人とモンゴル人は、イスラム教徒を共通の敵としていたが、数十年の間に多くの文書、贈り物、特使が交わされたにもかかわらず、しばしば提案された同盟締結は、ついに有効な同盟実現には至らなかった。 西欧とモンゴルとの接触は、1220年頃に、教皇とヨーロッパ各国王から大ハーンのようなモンゴル皇帝へ時折送られた書簡から始まり、その後モンゴルに征服された旧ペルシャ地域のイルハン朝へと引き継がれた。交流は、モンゴルが服従と朝貢を要求するのに対して、西欧諸国はモンゴルにキリスト教西方教会への改宗を求めるというパターンを繰り返す傾向にあった。モンゴル人はアジアの全域で彼らの進出に伴って既に多くのキリスト教国家とイスラム国家を征服しており、イスラム国家であるアッバース朝とアイユーブ朝を徹底的に破壊し滅亡させてきたが、この後数世代の間、この地域の最後のイスラム国家であるエジプトのマムルーク朝とは戦わなかった。十字軍国家の一つであるキリキア・アルメニア王国の王は、1247年にモンゴルに服属の姿勢を示すことによって独立保証を得ることに成功し、他の周辺キリスト教国家の君主にもモンゴルへの服従と提携について薦めたが、わずかに彼の義理の息子にあたるアンティオキア公国のの説得に成功したのみであった。ボエモン6世は1260年に同調し、モンゴルに服属している。アッコの聖ヨハネ騎士団に代表される近隣の他のキリスト教国家の君主達はモンゴル人に対してより懐疑的であったため、彼らを地域で最も重要な脅威として認識していた。そのため、アッコの騎士らはイスラム・マムルーク朝と歴史的にも奇妙な消極的同盟関係に係わっていった。その結果、1260年にマムルーク軍とモンゴル軍の間で戦われたアイン・ジャールートの戦いの際には、モンゴルを攻撃するために進軍してきたエジプト軍が十字軍国家領内を通過することを黙認している。 1260年代中頃から、モンゴルは脅威を及ぼす敵国であるという見方から、イスラム教徒に対する潜在的同盟国へと西欧諸国の態度が変わり始めた。モンゴルはこれを最大限利用しようと考え、協力と引き換えに再征服したエルサレムをキリスト教国家に返還することを約束した。連携を強化しようとする試みはペルシャのモンゴル国家、イルハン朝の創始者であるフレグから彼の子孫であるアバカ、アルグン、ガザン、オルジェイトゥまで、歴代ハーンとの交渉を通じて続けられたが、いずれも成功しなかった。モンゴルは1281年から1312年の間に、キリスト教諸国との共同作戦として度々シリア攻撃を目論んだが、致命的な物流補給の難しさとして軍が到着するのに数ヶ月単位で時間がかかることが仇となり、結局、いかなる方法においても効果的な作戦行動を調整することが出来なかった。やがて、モンゴル帝国は内乱のために崩壊していき、エジプトのマムルーク朝は十字軍国家からパレスチナとシリア全土を取り返すことに成功した。1291年のアッコ陥落の後、残った十字軍は、キプロス島へ退いた。騎士団の一部はタルトゥースの沖合にあるアルワード島に立てこもり、再度モンゴルとの共同軍事行動を計画し、タルトゥースに橋頭堡を確立する最後の試みを行ったものの失敗に終わった。イスラム教徒は島を包囲してこれに応じた。1302年 (1303年の秋の説もあり) アルワード島も陥落し、十字軍は聖地での最後の足場を失うこととなった。 現代歴史家の間では、西欧とモンゴルの間の同盟がレヴァント地域に勢力の均衡を変えることに成功したかどうか、そして、それがフランク人にとって賢い選択であったかどうかについて議論されている。伝統的に、モンゴル人は外部の第三国を臣下または敵国としてみなす傾向があり、同盟国のような中間的な概念はほとんどなかったと考えられている。 (ja)
  • フランクとモンゴルの同盟はフランク人 (この場合、フランク王国に由来を持ち、西方教会、特にローマカトリック教会に属する西ヨーロッパの諸国と、それら諸国が起こした十字軍によって建国されたレヴァント地域の十字軍国家 (ウトラメール)諸国のことを指す) とモンゴル人の間で模索された協力関係を言う。13世紀、彼らの共通の敵であるイスラム国家に対抗するため、フランク人による十字軍国家とモンゴルの帝国の間では様々なリーダーによって何度かの同盟に向けた試みが行われた。この当時、モンゴル人は既にキリスト教を一部受容しており、モンゴル宮廷に多くの有力なネストリウス派キリスト教徒が存在していたことから、このような同盟への動きは当然の成り行きであった。要因の一つには、伝説として永らく語り継がれていたプレスター・ジョン (多くの信者がある日聖地に十字軍の援軍として現れると信じていた、東方の神秘的王国の王) の伝説の存在がある。フランク (前出の通り、十字軍研究の分野では西欧諸国とそれらのレヴァント十字軍によって成立した国家のことを指す) には東方からの援軍について、提案を受け入れ易い背景が整っていたと言える。フランク人とモンゴル人は、イスラム教徒を共通の敵としていたが、数十年の間に多くの文書、贈り物、特使が交わされたにもかかわらず、しばしば提案された同盟締結は、ついに有効な同盟実現には至らなかった。 西欧とモンゴルとの接触は、1220年頃に、教皇とヨーロッパ各国王から大ハーンのようなモンゴル皇帝へ時折送られた書簡から始まり、その後モンゴルに征服された旧ペルシャ地域のイルハン朝へと引き継がれた。交流は、モンゴルが服従と朝貢を要求するのに対して、西欧諸国はモンゴルにキリスト教西方教会への改宗を求めるというパターンを繰り返す傾向にあった。モンゴル人はアジアの全域で彼らの進出に伴って既に多くのキリスト教国家とイスラム国家を征服しており、イスラム国家であるアッバース朝とアイユーブ朝を徹底的に破壊し滅亡させてきたが、この後数世代の間、この地域の最後のイスラム国家であるエジプトのマムルーク朝とは戦わなかった。十字軍国家の一つであるキリキア・アルメニア王国の王は、1247年にモンゴルに服属の姿勢を示すことによって独立保証を得ることに成功し、他の周辺キリスト教国家の君主にもモンゴルへの服従と提携について薦めたが、わずかに彼の義理の息子にあたるアンティオキア公国のの説得に成功したのみであった。ボエモン6世は1260年に同調し、モンゴルに服属している。アッコの聖ヨハネ騎士団に代表される近隣の他のキリスト教国家の君主達はモンゴル人に対してより懐疑的であったため、彼らを地域で最も重要な脅威として認識していた。そのため、アッコの騎士らはイスラム・マムルーク朝と歴史的にも奇妙な消極的同盟関係に係わっていった。その結果、1260年にマムルーク軍とモンゴル軍の間で戦われたアイン・ジャールートの戦いの際には、モンゴルを攻撃するために進軍してきたエジプト軍が十字軍国家領内を通過することを黙認している。 1260年代中頃から、モンゴルは脅威を及ぼす敵国であるという見方から、イスラム教徒に対する潜在的同盟国へと西欧諸国の態度が変わり始めた。モンゴルはこれを最大限利用しようと考え、協力と引き換えに再征服したエルサレムをキリスト教国家に返還することを約束した。連携を強化しようとする試みはペルシャのモンゴル国家、イルハン朝の創始者であるフレグから彼の子孫であるアバカ、アルグン、ガザン、オルジェイトゥまで、歴代ハーンとの交渉を通じて続けられたが、いずれも成功しなかった。モンゴルは1281年から1312年の間に、キリスト教諸国との共同作戦として度々シリア攻撃を目論んだが、致命的な物流補給の難しさとして軍が到着するのに数ヶ月単位で時間がかかることが仇となり、結局、いかなる方法においても効果的な作戦行動を調整することが出来なかった。やがて、モンゴル帝国は内乱のために崩壊していき、エジプトのマムルーク朝は十字軍国家からパレスチナとシリア全土を取り返すことに成功した。1291年のアッコ陥落の後、残った十字軍は、キプロス島へ退いた。騎士団の一部はタルトゥースの沖合にあるアルワード島に立てこもり、再度モンゴルとの共同軍事行動を計画し、タルトゥースに橋頭堡を確立する最後の試みを行ったものの失敗に終わった。イスラム教徒は島を包囲してこれに応じた。1302年 (1303年の秋の説もあり) アルワード島も陥落し、十字軍は聖地での最後の足場を失うこととなった。 現代歴史家の間では、西欧とモンゴルの間の同盟がレヴァント地域に勢力の均衡を変えることに成功したかどうか、そして、それがフランク人にとって賢い選択であったかどうかについて議論されている。伝統的に、モンゴル人は外部の第三国を臣下または敵国としてみなす傾向があり、同盟国のような中間的な概念はほとんどなかったと考えられている。 (ja)
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  • フランクとモンゴルの同盟はフランク人 (この場合、フランク王国に由来を持ち、西方教会、特にローマカトリック教会に属する西ヨーロッパの諸国と、それら諸国が起こした十字軍によって建国されたレヴァント地域の十字軍国家 (ウトラメール)諸国のことを指す) とモンゴル人の間で模索された協力関係を言う。13世紀、彼らの共通の敵であるイスラム国家に対抗するため、フランク人による十字軍国家とモンゴルの帝国の間では様々なリーダーによって何度かの同盟に向けた試みが行われた。この当時、モンゴル人は既にキリスト教を一部受容しており、モンゴル宮廷に多くの有力なネストリウス派キリスト教徒が存在していたことから、このような同盟への動きは当然の成り行きであった。要因の一つには、伝説として永らく語り継がれていたプレスター・ジョン (多くの信者がある日聖地に十字軍の援軍として現れると信じていた、東方の神秘的王国の王) の伝説の存在がある。フランク (前出の通り、十字軍研究の分野では西欧諸国とそれらのレヴァント十字軍によって成立した国家のことを指す) には東方からの援軍について、提案を受け入れ易い背景が整っていたと言える。フランク人とモンゴル人は、イスラム教徒を共通の敵としていたが、数十年の間に多くの文書、贈り物、特使が交わされたにもかかわらず、しばしば提案された同盟締結は、ついに有効な同盟実現には至らなかった。 (ja)
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  • フランクとモンゴルの同盟 (ja)
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