宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)は、大正天皇の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)妃に内定していた久邇宮家の良子女王(後の香淳皇后)の家系に色覚異常の遺伝があるとして、1920年(大正9年)から1921年(大正10年)にかけて元老・山縣有朋らが久邇宮家に婚約辞退を迫った事件である。天皇の血統を重んじる山縣らに対し、良子女王の父・久邇宮邦彦王や、皇太子や良子女王に倫理を教えていた杉浦重剛らが人倫論を訴え抵抗した。当時世間一般には知られなかったものの、薩長閥の対立や反藩閥勢力の動き、さらには皇太子の外遊計画への反対運動も絡んで、宮中から政界、右翼などを巻き込む騒動となった。しかし1921年2月10日に政府が婚約内定に変更はない旨の発表を行うことで収束し、正式に婚約。内定から5年後の1924年(大正13年)1月26日にようやく成婚式が行われた。一方、この一件で敗北した山縣は謹慎に追い込まれるなど影響力を著しく喪失し、失意のうちに翌年死去することとなる。 皇太子妃色盲事件とも。