百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、確認役として互いの部下1名ずつを相手方に派遣した上で競争し、野田が105人、向井が106人斬ったと報道された話。さらに、これではどちらが先に百人斬ったか分からないとして、仕切り直して今度は百五十人斬る事にしたと云う。南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された。 戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして非難された。戦後、本多勝一の『中国の旅』で紹介され、これに対して鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』、山本七平が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった。山本に対して洞富雄が反論した。

Property Value
dbo:abstract
  • 百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、確認役として互いの部下1名ずつを相手方に派遣した上で競争し、野田が105人、向井が106人斬ったと報道された話。さらに、これではどちらが先に百人斬ったか分からないとして、仕切り直して今度は百五十人斬る事にしたと云う。南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された。 戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして非難された。戦後、本多勝一の『中国の旅』で紹介され、これに対して鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』、山本七平が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった。山本に対して洞富雄が反論した。 2003年4月28日、向井敏明の長女、二女、野田毅の妹の遺族三人が原告となって、毎日新聞、朝日新聞と執筆者の本多勝一、据えもの斬り競争だったと主張する本多の論稿を含む『南京大虐殺否定論13のウソ』を刊行した柏書房を被告とし、「信憑性に乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き名誉を傷付けられた」として、東京地裁へ提訴し、出版差し止め、謝罪広告、損害賠償を請求した。2005年8月23日、東京地方裁判所の判決 (土肥章大裁判長)で原告らの請求が棄却され、2006年5月24日、控訴審・東京高等裁判所の判決 (裁判長) で控訴が棄却され、2006年12月22日、上告審・最高裁判所 (今井功裁判長) で上告が棄却され、原告敗訴が確定した。 (ja)
  • 百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、確認役として互いの部下1名ずつを相手方に派遣した上で競争し、野田が105人、向井が106人斬ったと報道された話。さらに、これではどちらが先に百人斬ったか分からないとして、仕切り直して今度は百五十人斬る事にしたと云う。南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された。 戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして非難された。戦後、本多勝一の『中国の旅』で紹介され、これに対して鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』、山本七平が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった。山本に対して洞富雄が反論した。 2003年4月28日、向井敏明の長女、二女、野田毅の妹の遺族三人が原告となって、毎日新聞、朝日新聞と執筆者の本多勝一、据えもの斬り競争だったと主張する本多の論稿を含む『南京大虐殺否定論13のウソ』を刊行した柏書房を被告とし、「信憑性に乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き名誉を傷付けられた」として、東京地裁へ提訴し、出版差し止め、謝罪広告、損害賠償を請求した。2005年8月23日、東京地方裁判所の判決 (土肥章大裁判長)で原告らの請求が棄却され、2006年5月24日、控訴審・東京高等裁判所の判決 (裁判長) で控訴が棄却され、2006年12月22日、上告審・最高裁判所 (今井功裁判長) で上告が棄却され、原告敗訴が確定した。 (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageID
  • 391654 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 36255 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 92558659 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:date
  • 2013-04-14 (xsd:date)
prop-ja:section
  • 1 (xsd:integer)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:内容過剰
  • 2020 (xsd:integer)
prop-ja:出典の明記
  • 2020 (xsd:integer)
prop-ja:正確性
  • 2020 (xsd:integer)
prop-ja:独自研究
  • 2020 (xsd:integer)
prop-ja:精度
  • 2020 (xsd:integer)
dct:subject
rdfs:comment
  • 百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、確認役として互いの部下1名ずつを相手方に派遣した上で競争し、野田が105人、向井が106人斬ったと報道された話。さらに、これではどちらが先に百人斬ったか分からないとして、仕切り直して今度は百五十人斬る事にしたと云う。南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された。 戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして非難された。戦後、本多勝一の『中国の旅』で紹介され、これに対して鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』、山本七平が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった。山本に対して洞富雄が反論した。 (ja)
  • 百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、確認役として互いの部下1名ずつを相手方に派遣した上で競争し、野田が105人、向井が106人斬ったと報道された話。さらに、これではどちらが先に百人斬ったか分からないとして、仕切り直して今度は百五十人斬る事にしたと云う。南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された。 戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして非難された。戦後、本多勝一の『中国の旅』で紹介され、これに対して鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』、山本七平が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった。山本に対して洞富雄が反論した。 (ja)
rdfs:label
  • 百人斬り競争 (ja)
  • 百人斬り競争 (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageRedirects of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of