宮崎 定範(みやざき さだのり、生年不明 - 承久3年(1221年))は、鎌倉時代の越中国の武将。越中宮崎城主。諱は「時政」とも「親成」とも伝わるものの、鎌倉幕府の公式記録とも言うべき『吾妻鏡』では「定範」とされている。後鳥羽天皇の朝に出仕して左衛門尉に任ぜられ、承久3年の承久の乱においては北陸道の守備に当った。