宮崎 太郎(みやざき たろう、長承元年(1132年) - 建久6年(1195年))は、平安時代末期の越中国の武将。越中宮崎城主。「太郎」は長男を示す輩行名で、諱は「長康」とも「重頼」とも伝わる(「」参照)。木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いでは勝敗の決め手となった山岳夜襲戦法を献策した。