奥州後三年記(おうしゅうごさんねんき)は、平安時代後期の永保3年(1083年)から、寛治2年(1088年)にかけての、陸奥・出羽両国にまたがった争乱、いわゆる「後三年の役」、または「義家合戦」と呼ばれるものを描いたものである。実際には永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)の5年間の戦いであったが、「十二年合戦」(前九年合戦の古称)が前九年・後三年の両方を指すとする誤解が鎌倉後期に生じ、前者を9年間(実際には12年間)、後者を3年間(実際には5年間)と振り分ける呼称が成立した。その成立については、長らく南北朝時代の貞和3年(1347年)とされてきたが、野中哲照は丁寧語「侍り」の用法などから院政初期の成立であることを明らかにした。