スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻では、967/968年から971年にかけてバルカン半島東部で起こった、スヴャトスラフ1世率いるキエフ・ルーシ、第一次ブルガリア帝国、東ローマ帝国による戦役について述べる。スヴャトスラフ1世は最初東ローマ帝国の要請に応じてブルガリアへ侵攻、これを破って2年の間にブルガリア領の北部・北東部を占領した。その後キエフ・ルーシと東ローマ帝国の間で衝突が起き、最終的に東ローマ帝国が勝利をおさめた。キエフ・ルーシ軍は撤退し、東ローマ帝国がブルガリア領東部を併合した。 927年、ブルガリアと東ローマ帝国の間で和平条約が結ばれて40年間の停戦が定められ、長きにわたった両国の対立に一旦の終止符が打たれた。和平期間の間に両国とも力を蓄えたものの、東方でアッバース朝から大幅に領土を奪った東ローマ帝国が徐々に優勢になり、周辺国と同盟を結び対ブルガリア包囲網を築いた。965/966年、新たに東ローマ皇帝の座についたニケフォロス2世フォカスは、和平条約で取り決められていたブルガリアへの貢納を停止し、宣戦布告した。彼自身は東方での戦争に忙殺されていたため、対ブルガリア戦争の駒としてルーシの君主スヴャトスラフ1世を招き入れたのだった。

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  • スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻では、967/968年から971年にかけてバルカン半島東部で起こった、スヴャトスラフ1世率いるキエフ・ルーシ、第一次ブルガリア帝国、東ローマ帝国による戦役について述べる。スヴャトスラフ1世は最初東ローマ帝国の要請に応じてブルガリアへ侵攻、これを破って2年の間にブルガリア領の北部・北東部を占領した。その後キエフ・ルーシと東ローマ帝国の間で衝突が起き、最終的に東ローマ帝国が勝利をおさめた。キエフ・ルーシ軍は撤退し、東ローマ帝国がブルガリア領東部を併合した。 927年、ブルガリアと東ローマ帝国の間で和平条約が結ばれて40年間の停戦が定められ、長きにわたった両国の対立に一旦の終止符が打たれた。和平期間の間に両国とも力を蓄えたものの、東方でアッバース朝から大幅に領土を奪った東ローマ帝国が徐々に優勢になり、周辺国と同盟を結び対ブルガリア包囲網を築いた。965/966年、新たに東ローマ皇帝の座についたニケフォロス2世フォカスは、和平条約で取り決められていたブルガリアへの貢納を停止し、宣戦布告した。彼自身は東方での戦争に忙殺されていたため、対ブルガリア戦争の駒としてルーシの君主スヴャトスラフ1世を招き入れたのだった。 ブルガリアへの外交的圧力になればというニケフォロス2世の期待を超えて、スヴャトスラフ1世は破竹の勢いでブルガリアに侵攻し、967年から969年の間にバルカン半島北部のブルガリア枢要地を占領し、ブルガリアのツァーリであるを捕らえ、これを傀儡とすることで占領地を統治し始めた。さらにスヴャトスラフ1世はルーシからブルガリアにまたがる巨大帝国の建設を目論見、南進を続けて東ローマ帝国と衝突した。トラキアを進撃したルーシ軍だったが、970年にアルカディオポリスの戦いで東ローマ帝国の新帝ヨハネス1世ツィミスケスに敗北を喫した。反撃に転じたヨハネス1世はブルガリア領北部に進出し、首都を占領した。ドロストポリにおけるの末、スヴャトスラフ1世は東ローマ帝国と和平を結び、ブルガリアからの撤退に同意した。ヨハネス1世は正式にブルガリア東部を併合した。しかしバルカン半島中部・西部の諸国に影響力を及ぼすことは出来ないままだった。これが後のによるブルガリア国家の復活を招くことになる。 (ja)
  • スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻では、967/968年から971年にかけてバルカン半島東部で起こった、スヴャトスラフ1世率いるキエフ・ルーシ、第一次ブルガリア帝国、東ローマ帝国による戦役について述べる。スヴャトスラフ1世は最初東ローマ帝国の要請に応じてブルガリアへ侵攻、これを破って2年の間にブルガリア領の北部・北東部を占領した。その後キエフ・ルーシと東ローマ帝国の間で衝突が起き、最終的に東ローマ帝国が勝利をおさめた。キエフ・ルーシ軍は撤退し、東ローマ帝国がブルガリア領東部を併合した。 927年、ブルガリアと東ローマ帝国の間で和平条約が結ばれて40年間の停戦が定められ、長きにわたった両国の対立に一旦の終止符が打たれた。和平期間の間に両国とも力を蓄えたものの、東方でアッバース朝から大幅に領土を奪った東ローマ帝国が徐々に優勢になり、周辺国と同盟を結び対ブルガリア包囲網を築いた。965/966年、新たに東ローマ皇帝の座についたニケフォロス2世フォカスは、和平条約で取り決められていたブルガリアへの貢納を停止し、宣戦布告した。彼自身は東方での戦争に忙殺されていたため、対ブルガリア戦争の駒としてルーシの君主スヴャトスラフ1世を招き入れたのだった。 ブルガリアへの外交的圧力になればというニケフォロス2世の期待を超えて、スヴャトスラフ1世は破竹の勢いでブルガリアに侵攻し、967年から969年の間にバルカン半島北部のブルガリア枢要地を占領し、ブルガリアのツァーリであるを捕らえ、これを傀儡とすることで占領地を統治し始めた。さらにスヴャトスラフ1世はルーシからブルガリアにまたがる巨大帝国の建設を目論見、南進を続けて東ローマ帝国と衝突した。トラキアを進撃したルーシ軍だったが、970年にアルカディオポリスの戦いで東ローマ帝国の新帝ヨハネス1世ツィミスケスに敗北を喫した。反撃に転じたヨハネス1世はブルガリア領北部に進出し、首都を占領した。ドロストポリにおけるの末、スヴャトスラフ1世は東ローマ帝国と和平を結び、ブルガリアからの撤退に同意した。ヨハネス1世は正式にブルガリア東部を併合した。しかしバルカン半島中部・西部の諸国に影響力を及ぼすことは出来ないままだった。これが後のによるブルガリア国家の復活を招くことになる。 (ja)
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  • ドロストポリの戦いでルーシ軍を追う東ローマ軍。『スキュリツェス年代記』より。 (ja)
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  • スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻 (ja)
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  • 東ローマ帝国の勝利。キエフ・ルーシはブルガリアから撤退 (ja)
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  • 東ローマ帝国がブルガリアを公式に併合 (ja)
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  • スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻では、967/968年から971年にかけてバルカン半島東部で起こった、スヴャトスラフ1世率いるキエフ・ルーシ、第一次ブルガリア帝国、東ローマ帝国による戦役について述べる。スヴャトスラフ1世は最初東ローマ帝国の要請に応じてブルガリアへ侵攻、これを破って2年の間にブルガリア領の北部・北東部を占領した。その後キエフ・ルーシと東ローマ帝国の間で衝突が起き、最終的に東ローマ帝国が勝利をおさめた。キエフ・ルーシ軍は撤退し、東ローマ帝国がブルガリア領東部を併合した。 927年、ブルガリアと東ローマ帝国の間で和平条約が結ばれて40年間の停戦が定められ、長きにわたった両国の対立に一旦の終止符が打たれた。和平期間の間に両国とも力を蓄えたものの、東方でアッバース朝から大幅に領土を奪った東ローマ帝国が徐々に優勢になり、周辺国と同盟を結び対ブルガリア包囲網を築いた。965/966年、新たに東ローマ皇帝の座についたニケフォロス2世フォカスは、和平条約で取り決められていたブルガリアへの貢納を停止し、宣戦布告した。彼自身は東方での戦争に忙殺されていたため、対ブルガリア戦争の駒としてルーシの君主スヴャトスラフ1世を招き入れたのだった。 (ja)
  • スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻では、967/968年から971年にかけてバルカン半島東部で起こった、スヴャトスラフ1世率いるキエフ・ルーシ、第一次ブルガリア帝国、東ローマ帝国による戦役について述べる。スヴャトスラフ1世は最初東ローマ帝国の要請に応じてブルガリアへ侵攻、これを破って2年の間にブルガリア領の北部・北東部を占領した。その後キエフ・ルーシと東ローマ帝国の間で衝突が起き、最終的に東ローマ帝国が勝利をおさめた。キエフ・ルーシ軍は撤退し、東ローマ帝国がブルガリア領東部を併合した。 927年、ブルガリアと東ローマ帝国の間で和平条約が結ばれて40年間の停戦が定められ、長きにわたった両国の対立に一旦の終止符が打たれた。和平期間の間に両国とも力を蓄えたものの、東方でアッバース朝から大幅に領土を奪った東ローマ帝国が徐々に優勢になり、周辺国と同盟を結び対ブルガリア包囲網を築いた。965/966年、新たに東ローマ皇帝の座についたニケフォロス2世フォカスは、和平条約で取り決められていたブルガリアへの貢納を停止し、宣戦布告した。彼自身は東方での戦争に忙殺されていたため、対ブルガリア戦争の駒としてルーシの君主スヴャトスラフ1世を招き入れたのだった。 (ja)
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  • スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻 (ja)
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