角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年〈1554年〉 - 慶長19年7月12日〈1614年8月17日〉)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商。諱は光好。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、私財を投じて山城(京都)の大堰川(=保津川 慶長13年〈1608年〉)と高瀬川を開削した。開発費用は現在の価格換算で150億円の私財を投入したと考えられる一方で、通行料収入ですぐ元を取ったと言われる。また江戸幕府の命令により富士川(慶長12年〈1612年〉)、天竜川、庄内川などの開削を行った。地元京都では商人としてよりも琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。 自宅は現在の日本銀行京都支店の場所、別邸はその通りを挟んで東、現在の飲食店がんこ高瀬川二条苑である。 長男に角倉素庵、弟に。吉田光由は一族にあたる。墓所は京都市嵯峨野の二尊院。明治40年(1907年)、正五位を追贈された。