越中公方(えっちゅうくぼう)とは、明応2年(1493年)の「明応の政変」によって将軍の座を追われ、越中国射水郡放生津(現富山県射水市)へ落ち延びた室町幕府10代将軍足利義材、ないしは彼が放生津で樹立した亡命政権のこと。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。もっとも『大乗院寺社雑事記』明応5年1月1日の条には「武家越中国御座 官領未補 侍所未補」とあって、管領も侍所も補任されていないことを伝えており、幕府と呼びうるだけの体制は伴っていなかった。

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  • 越中公方(えっちゅうくぼう)とは、明応2年(1493年)の「明応の政変」によって将軍の座を追われ、越中国射水郡放生津(現富山県射水市)へ落ち延びた室町幕府10代将軍足利義材、ないしは彼が放生津で樹立した亡命政権のこと。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。もっとも『大乗院寺社雑事記』明応5年1月1日の条には「武家越中国御座 官領未補 侍所未補」とあって、管領も侍所も補任されていないことを伝えており、幕府と呼びうるだけの体制は伴っていなかった。 (ja)
  • 越中公方(えっちゅうくぼう)とは、明応2年(1493年)の「明応の政変」によって将軍の座を追われ、越中国射水郡放生津(現富山県射水市)へ落ち延びた室町幕府10代将軍足利義材、ないしは彼が放生津で樹立した亡命政権のこと。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。もっとも『大乗院寺社雑事記』明応5年1月1日の条には「武家越中国御座 官領未補 侍所未補」とあって、管領も侍所も補任されていないことを伝えており、幕府と呼びうるだけの体制は伴っていなかった。 (ja)
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  • 御所となった正光寺は、放生津城に隣接する石丸(高岡市石丸)にあった光正寺(現在は射水市本町へ移転)を指すと考えられている (ja)
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  • 越中公方(えっちゅうくぼう)とは、明応2年(1493年)の「明応の政変」によって将軍の座を追われ、越中国射水郡放生津(現富山県射水市)へ落ち延びた室町幕府10代将軍足利義材、ないしは彼が放生津で樹立した亡命政権のこと。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。もっとも『大乗院寺社雑事記』明応5年1月1日の条には「武家越中国御座 官領未補 侍所未補」とあって、管領も侍所も補任されていないことを伝えており、幕府と呼びうるだけの体制は伴っていなかった。 (ja)
  • 越中公方(えっちゅうくぼう)とは、明応2年(1493年)の「明応の政変」によって将軍の座を追われ、越中国射水郡放生津(現富山県射水市)へ落ち延びた室町幕府10代将軍足利義材、ないしは彼が放生津で樹立した亡命政権のこと。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。もっとも『大乗院寺社雑事記』明応5年1月1日の条には「武家越中国御座 官領未補 侍所未補」とあって、管領も侍所も補任されていないことを伝えており、幕府と呼びうるだけの体制は伴っていなかった。 (ja)
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  • 越中公方 (ja)
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