奝然(ちょうねん、天慶元年1月24日(938年2月25日) - 長和5年3月16日(1016年4月25日))は、平安時代中期の東大寺の三論宗の僧。俗姓は藤原氏。藤原真連の子(雍熙元年,日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,并本國職員今、王年代紀各一卷。奝然衣綠,自云姓藤原氏,父為真連;真連,其國五品品官也)。京都の出身。法済大師とも号される。 東大寺のに三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、永観元年(983年)、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、寛和2年(986年)に帰国した。翌寛和3年(987年)、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同じ年法橋に任じられ、永祚元年(989年)から3年間東大寺別当をつとめた。 奝然が請来した釈迦如来立像は、奝然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に完成してそこに安置された。 奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。

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  • 奝然(ちょうねん、天慶元年1月24日(938年2月25日) - 長和5年3月16日(1016年4月25日))は、平安時代中期の東大寺の三論宗の僧。俗姓は藤原氏。藤原真連の子(雍熙元年,日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,并本國職員今、王年代紀各一卷。奝然衣綠,自云姓藤原氏,父為真連;真連,其國五品品官也)。京都の出身。法済大師とも号される。 東大寺のに三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、永観元年(983年)、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、寛和2年(986年)に帰国した。翌寛和3年(987年)、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同じ年法橋に任じられ、永祚元年(989年)から3年間東大寺別当をつとめた。 奝然が請来した釈迦如来立像は、奝然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に完成してそこに安置された。 奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。 (ja)
  • 奝然(ちょうねん、天慶元年1月24日(938年2月25日) - 長和5年3月16日(1016年4月25日))は、平安時代中期の東大寺の三論宗の僧。俗姓は藤原氏。藤原真連の子(雍熙元年,日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,并本國職員今、王年代紀各一卷。奝然衣綠,自云姓藤原氏,父為真連;真連,其國五品品官也)。京都の出身。法済大師とも号される。 東大寺のに三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、永観元年(983年)、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、寛和2年(986年)に帰国した。翌寛和3年(987年)、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同じ年法橋に任じられ、永祚元年(989年)から3年間東大寺別当をつとめた。 奝然が請来した釈迦如来立像は、奝然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に完成してそこに安置された。 奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。 (ja)
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  • 奝然(ちょうねん、天慶元年1月24日(938年2月25日) - 長和5年3月16日(1016年4月25日))は、平安時代中期の東大寺の三論宗の僧。俗姓は藤原氏。藤原真連の子(雍熙元年,日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,并本國職員今、王年代紀各一卷。奝然衣綠,自云姓藤原氏,父為真連;真連,其國五品品官也)。京都の出身。法済大師とも号される。 東大寺のに三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、永観元年(983年)、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、寛和2年(986年)に帰国した。翌寛和3年(987年)、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同じ年法橋に任じられ、永祚元年(989年)から3年間東大寺別当をつとめた。 奝然が請来した釈迦如来立像は、奝然が宋にわたる前に伽藍の建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に完成してそこに安置された。 奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。 (ja)
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