三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活躍。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。朝鮮戦争が勃発すると、来日したデビッド・ダグラス・ダンカン、カール・マイダンス、ハンク・ウォーカー といった『ライフ』の写真家たちに、ニコン製のレンズとカメラを紹介し、ニコンが世界中に広まる契機となる。サンフランシスコ講和条約調印の際、吉田茂首相の葉巻をくわえた姿を撮影し、『ライフ』の表紙を飾る。 没後、若手写真家の活動支援を目的として、ニコンイメージングジャパン より、「三木淳賞」が設立される。

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  • 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活躍。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。朝鮮戦争が勃発すると、来日したデビッド・ダグラス・ダンカン、カール・マイダンス、ハンク・ウォーカー といった『ライフ』の写真家たちに、ニコン製のレンズとカメラを紹介し、ニコンが世界中に広まる契機となる。サンフランシスコ講和条約調印の際、吉田茂首相の葉巻をくわえた姿を撮影し、『ライフ』の表紙を飾る。 1950年(昭和25年)、写真家団体『集団フォト』を結成。同団体のグループ展で、アンリ・カルティエ・ブレッソンやマーガレット・バーク=ホワイトのオリジナルプリントを日本で初めて紹介した。また、1952年(昭和27年)には、ニッコールクラブ設立を提案し、アマチュア写真愛好家をサポートする。53歳のとき、脳腫瘍を患い治癒後は後輩の育成、写真美術館の設立、写真家の地位向上に尽力する。 没後、若手写真家の活動支援を目的として、ニコンイメージングジャパン より、「三木淳賞」が設立される。 第三代日本写真家協会会長(JPS)、初代日本写真作家協会会長(JPA)、第三代ニッコールクラブ会長、日本大学芸術研究所教授、九州産業大学大学院芸術研究科教授、初代土門拳記念館館長などを歴任。栄典および位階は、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、正五位。 (ja)
  • 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活躍。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。朝鮮戦争が勃発すると、来日したデビッド・ダグラス・ダンカン、カール・マイダンス、ハンク・ウォーカー といった『ライフ』の写真家たちに、ニコン製のレンズとカメラを紹介し、ニコンが世界中に広まる契機となる。サンフランシスコ講和条約調印の際、吉田茂首相の葉巻をくわえた姿を撮影し、『ライフ』の表紙を飾る。 1950年(昭和25年)、写真家団体『集団フォト』を結成。同団体のグループ展で、アンリ・カルティエ・ブレッソンやマーガレット・バーク=ホワイトのオリジナルプリントを日本で初めて紹介した。また、1952年(昭和27年)には、ニッコールクラブ設立を提案し、アマチュア写真愛好家をサポートする。53歳のとき、脳腫瘍を患い治癒後は後輩の育成、写真美術館の設立、写真家の地位向上に尽力する。 没後、若手写真家の活動支援を目的として、ニコンイメージングジャパン より、「三木淳賞」が設立される。 第三代日本写真家協会会長(JPS)、初代日本写真作家協会会長(JPA)、第三代ニッコールクラブ会長、日本大学芸術研究所教授、九州産業大学大学院芸術研究科教授、初代土門拳記念館館長などを歴任。栄典および位階は、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、正五位。 (ja)
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  • 慶應義塾大学経済学部卒 (ja)
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  • 富士プロフェッショナル年間最高写真賞(1960年) (ja)
  • ADC賞銅賞(1965年) (ja)
  • ICIE優秀賞(1964年) (ja)
  • ICIE最優秀賞(1964年、1969年) (ja)
  • 第3回日本写真批評家協会作家賞(1959年) (ja)
  • 全国PR誌コンクール最優秀賞(1965年) (ja)
  • アルス写真年鑑特賞(1951年) (ja)
  • 全国カタログポスター展最優秀賞 (ja)
  • 第12回日本写真協会年度賞(1962年) (ja)
  • 第1回講談社写真賞(1960年) (ja)
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  • 東京慈恵会医科大学付属病院 (ja)
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  • 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活躍。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。朝鮮戦争が勃発すると、来日したデビッド・ダグラス・ダンカン、カール・マイダンス、ハンク・ウォーカー といった『ライフ』の写真家たちに、ニコン製のレンズとカメラを紹介し、ニコンが世界中に広まる契機となる。サンフランシスコ講和条約調印の際、吉田茂首相の葉巻をくわえた姿を撮影し、『ライフ』の表紙を飾る。 没後、若手写真家の活動支援を目的として、ニコンイメージングジャパン より、「三木淳賞」が設立される。 (ja)
  • 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活躍。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。朝鮮戦争が勃発すると、来日したデビッド・ダグラス・ダンカン、カール・マイダンス、ハンク・ウォーカー といった『ライフ』の写真家たちに、ニコン製のレンズとカメラを紹介し、ニコンが世界中に広まる契機となる。サンフランシスコ講和条約調印の際、吉田茂首相の葉巻をくわえた姿を撮影し、『ライフ』の表紙を飾る。 没後、若手写真家の活動支援を目的として、ニコンイメージングジャパン より、「三木淳賞」が設立される。 (ja)
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  • 三木淳 (ja)
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