キエフ公国の大公ウラジーミル1世(958年頃-1015年)は洗礼を受けるまで、の主教であるティトマー(Thietmar)により「大いなる極道者」(ラテン語:fornicator maximus)と呼ばれた。ウラジーミルはキエフの宮廷や、ベルゴロド、ヴィーシュホロド、ベレストヴォ(現在はキエフ市内にあたる)などの各地の別邸に数百人の妾をおいていた。またポロツクのログネダを初めとする複数の異教徒の妻がいた。『ルーシ原初年代記』はウラジーミルに12人の息子がいたとし、ウラジーミルの妻たちについても、その子供とともに記録している。しかし、どの子供がどの妻から生まれたかについて、年代記の報告は一致していない。したがって、以下の記述は、多分に推測に基づいたものとならざるをえない。