This HTML5 document contains 77 embedded RDF statements represented using HTML+Microdata notation.

The embedded RDF content will be recognized by any processor of HTML5 Microdata.

PrefixNamespace IRI
dctermshttp://purl.org/dc/terms/
n11http://ja.dbpedia.org/resource/元_(王朝)
dbpedia-owlhttp://dbpedia.org/ontology/
foafhttp://xmlns.com/foaf/0.1/
dbpedia-kohttp://ko.dbpedia.org/resource/
n8http://wikidata.dbpedia.org/resource/
n14http://ja.dbpedia.org/resource/枢密院_(中国)
dbpedia-ruhttp://ru.dbpedia.org/resource/
rdfshttp://www.w3.org/2000/01/rdf-schema#
n15http://ja.dbpedia.org/resource/奇皇后_(テレビドラマ)
n13http://mn.dbpedia.org/resource/
rdfhttp://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#
owlhttp://www.w3.org/2002/07/owl#
category-jahttp://ja.dbpedia.org/resource/Category:
n20http://ja.wikipedia.org/wiki/エル・テムル?oldid=
wiki-jahttp://ja.wikipedia.org/wiki/
n12http://zh.dbpedia.org/resource/
provhttp://www.w3.org/ns/prov#
xsdhhttp://www.w3.org/2001/XMLSchema#
n21http://www.wikidata.org/entity/
n17http://ja.dbpedia.org/resource/バヤン_(メルキト部)
dbpedia-jahttp://ja.dbpedia.org/resource/
Subject Item
wiki-ja:エル・テムル
foaf:primaryTopic
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:元史
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:トクト
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:ハラチン
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:1333å¹´
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
n11:
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:アリギバ
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:イリンジバル
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:コシラ
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:トク・テムル
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:トゴン・テムル
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
n17:
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:エル・テムル
rdfs:label
エル・テムル
rdfs:comment
エル・テムル(El-Temür, ? - 1333年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は燕鉄木児。キプチャク親衛軍を率いる軍閥で、1328年の内乱に勝利して大ハーンを擁し、独裁権力をふるった。もとモンゴル帝国によって征服されたキプチャクの部族長の家柄で、祖父トクトガはモンケに従って中国に移り、モンケの弟クビライに仕えて諸戦役に活躍した。父のチョンウルもクビライの曾孫カイシャンが王族時代にカイシャンを助けてオゴデイ家のカイドゥを破るのに大きな功があったが、このとき少年だったエル・テムルも父に従ってカイシャンの幕下にあってカイシャンの寵愛を受け、カイシャンが即位すると知宣徽院事を経て左親軍都指揮使に昇進した。その後もキプチャク軍閥の司令官として軍中に重きをなし、泰定帝イェスン・テムルのとき軍政機関枢密院の要職である僉枢密院事にのぼる。1328年夏にイェスン・テムルが夏の都上都で急死したとき、エル・テムルは子飼いのキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守を守っていた。もともとカイシャン恩顧の将軍であって、イェスン・テムルの側近ダウラト・シャーらの専制をこころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会をとらえてカイシャンの遺児を即位させることをもくろみ、反乱を起こして大都の政府機関を接収した。エル・テムルはその軍事力によって大都駐留の軍隊と官僚を味方につけると、カイシャンの次男トク・テムルを抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラの到着を待ってハーン位を譲り渡そうと主張するトク・テムルを説得してハーンに即位させた。エル・テムルは擁立の功をもって開府儀同三司、上柱国、録軍国重事、中書右丞相、監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられてトク・テムルの政府の最高実力者となる。時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させたので、元はふたつの首都を南北に分けた内戦となった。しかしエル・テムルが大都に進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破ると遼東にいた王族が大都側について上都を包囲し、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏させた。大都側の勝利によって中国各地の諸軍はトク・テムルとエル・テムルに従ったが、今度はアルタイ山脈の西側という遠方にいたトク・テムルの兄コシラがモンゴル高原に入り、旧都カラコルムで高原の諸王族・有力者の支持を取り付けてハーン位を請求した。1329年4月、エル・テムルは自ら高原に赴いてコシラに謁し、玉璽を奉じてハーンに推戴した。コシラは政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍権の最高官である太師の称号を贈り、トク・テムルを皇太子としたが、8月に上都の郊外で兄弟会見した直後に急死した。コシラの側近たちに政権を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したと言われる。皇太子トク・テムルはすぐさまハーンに復位し、コシラの側近たちはエル・テムルによって追放、処分された。トク・テムルの朝廷のもと、エル・テムルはさまざまな特権を与えられ、ハーンをまったくの傀儡とする権力者として君臨した。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を自ら娶り、トク・テムル・ハーンの長男エル・テグスを自邸で養育し、かわりにエル・テムルの子がハーンの養子として宮廷で育てられた。また、コシラの長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し、高麗に追放した。1332年、トク・テムルは29歳の若さで死亡するにあたり、兄コシラの子を即位させるように遺言した。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身の養い子であるエル・テグスを即位させようと試み、トク・テムルの未亡人でエル・テグスの母であるブダシリにエル・テグス擁立を提議した。しかし、ブダシリは亡夫の遺志を尊重してコシラの子を立てることを要求したので、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバルを即位させ、自らはその摂政となったが、幼帝イリンジバルは即位からわずか43日後に亡くなった。ここにおいてエル・テムルは再びエル・テグス擁立をブダシリに要請したが、ブダシリは我が子が幼いことを理由に断ったので、エル・テムルはやむなく広西に流されていたイリンジバルの兄トゴン・テムルを呼び戻すことに同意した。トゴン・テムルが大都に至ると、エル・テムルはこれを出迎えて大都まで馬を並べて歩みながら今後のことを話したが、トゴン・テムルはエル・テムルを恐れて黙り込んだままだった。これを見たエル・テムルはトゴン・テムルが思い通りにならないことを恐れ、即位の式を先延ばしにしたが、その3か月後の1333年4月に病死した。エル・テムルの死後も、その弟サトン、次いで子のタンキシが中書左丞相となり、また娘のダナシリはトゴン・テムル・ハーンの皇后となってエル・テムル家の権勢は続いた。しかし、行政機関中書省の長官である中書右丞相にはエル・テムルに協力した軍閥バヤンが就任し、バヤンが政権の最高実力者として振舞っていた。1335年、左丞相タンキシは右丞相バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こしたが、バヤンによって鎮圧された。タンキシをはじめエル・テムルの一門は皇后ダナシリを含めてすべて殺害され、元で権勢をふるったエル・テムル家のキプチャク軍閥はエル・テムルの死からわずか2年後に滅亡した。
owl:sameAs
n8:Q7157453 dbpedia-ru:Эль-Тимур n12:燕帖木儿 n13:Яньтөмөр dbpedia-ko:엘_테무르 n21:Q7157453
foaf:isPrimaryTopicOf
wiki-ja:エル・テムル
prov:wasDerivedFrom
n20:49563794
dbpedia-owl:abstract
エル・テムル(El-Temür, ? - 1333年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は燕鉄木児。キプチャク親衛軍を率いる軍閥で、1328年の内乱に勝利して大ハーンを擁し、独裁権力をふるった。もとモンゴル帝国によって征服されたキプチャクの部族長の家柄で、祖父トクトガはモンケに従って中国に移り、モンケの弟クビライに仕えて諸戦役に活躍した。父のチョンウルもクビライの曾孫カイシャンが王族時代にカイシャンを助けてオゴデイ家のカイドゥを破るのに大きな功があったが、このとき少年だったエル・テムルも父に従ってカイシャンの幕下にあってカイシャンの寵愛を受け、カイシャンが即位すると知宣徽院事を経て左親軍都指揮使に昇進した。その後もキプチャク軍閥の司令官として軍中に重きをなし、泰定帝イェスン・テムルのとき軍政機関枢密院の要職である僉枢密院事にのぼる。1328年夏にイェスン・テムルが夏の都上都で急死したとき、エル・テムルは子飼いのキプチャク軍団とともに冬の都大都に駐留して留守を守っていた。もともとカイシャン恩顧の将軍であって、イェスン・テムルの側近ダウラト・シャーらの専制をこころよく思っていなかったエル・テムルは、この機会をとらえてカイシャンの遺児を即位させることをもくろみ、反乱を起こして大都の政府機関を接収した。エル・テムルはその軍事力によって大都駐留の軍隊と官僚を味方につけると、カイシャンの次男トク・テムルを抑留先の江陵から迎えいれ、遠方にいる兄のコシラの到着を待ってハーン位を譲り渡そうと主張するトク・テムルを説得してハーンに即位させた。エル・テムルは擁立の功をもって開府儀同三司、上柱国、録軍国重事、中書右丞相、監修国史、知枢密院事に任ぜられ、さらに太平王の王号まで授けられてトク・テムルの政府の最高実力者となる。時にダウラト・シャーらは上都に留まったままイェスン・テムルの遺児アリギバを即位させたので、元はふたつの首都を南北に分けた内戦となった。しかしエル・テムルが大都に進軍してきた上都側の軍を迎撃して打ち破ると遼東にいた王族が大都側について上都を包囲し、ついにアリギバとダウラト・シャーを降伏させた。大都側の勝利によって中国各地の諸軍はトク・テムルとエル・テムルに従ったが、今度はアルタイ山脈の西側という遠方にいたトク・テムルの兄コシラがモンゴル高原に入り、旧都カラコルムで高原の諸王族・有力者の支持を取り付けてハーン位を請求した。1329年4月、エル・テムルは自ら高原に赴いてコシラに謁し、玉璽を奉じてハーンに推戴した。コシラは政権奪取の功を賞してエル・テムルに軍権の最高官である太師の称号を贈り、トク・テムルを皇太子としたが、8月に上都の郊外で兄弟会見した直後に急死した。コシラの側近たちに政権を奪われることを恐れたエル・テムルが毒殺したと言われる。皇太子トク・テムルはすぐさまハーンに復位し、コシラの側近たちはエル・テムルによって追放、処分された。トク・テムルの朝廷のもと、エル・テムルはさまざまな特権を与えられ、ハーンをまったくの傀儡とする権力者として君臨した。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を自ら娶り、トク・テムル・ハーンの長男エル・テグスを自邸で養育し、かわりにエル・テムルの子がハーンの養子として宮廷で育てられた。また、コシラの長男トゴン・テムルを実はコシラの子ではないと称し、高麗に追放した。1332年、トク・テムルは29歳の若さで死亡するにあたり、兄コシラの子を即位させるように遺言した。しかしそれにもかかわらず、エル・テムルは自身の養い子であるエル・テグスを即位させようと試み、トク・テムルの未亡人でエル・テグスの母であるブダシリにエル・テグス擁立を提議した。しかし、ブダシリは亡夫の遺志を尊重してコシラの子を立てることを要求したので、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバルを即位させ、自らはその摂政となったが、幼帝イリンジバルは即位からわずか43日後に亡くなった。ここにおいてエル・テムルは再びエル・テグス擁立をブダシリに要請したが、ブダシリは我が子が幼いことを理由に断ったので、エル・テムルはやむなく広西に流されていたイリンジバルの兄トゴン・テムルを呼び戻すことに同意した。トゴン・テムルが大都に至ると、エル・テムルはこれを出迎えて大都まで馬を並べて歩みながら今後のことを話したが、トゴン・テムルはエル・テムルを恐れて黙り込んだままだった。これを見たエル・テムルはトゴン・テムルが思い通りにならないことを恐れ、即位の式を先延ばしにしたが、その3か月後の1333年4月に病死した。エル・テムルの死後も、その弟サトン、次いで子のタンキシが中書左丞相となり、また娘のダナシリはトゴン・テムル・ハーンの皇后となってエル・テムル家の権勢は続いた。しかし、行政機関中書省の長官である中書右丞相にはエル・テムルに協力した軍閥バヤンが就任し、バヤンが政権の最高実力者として振舞っていた。1335年、左丞相タンキシは右丞相バヤンから政権を取り戻そうとして反乱を起こしたが、バヤンによって鎮圧された。タンキシをはじめエル・テムルの一門は皇后ダナシリを含めてすべて殺害され、元で権勢をふるったエル・テムル家のキプチャク軍閥はエル・テムルの死からわずか2年後に滅亡した。
dbpedia-owl:wikiPageID
156672
dbpedia-owl:wikiPageLength
2535
dbpedia-owl:wikiPageOutDegree
41
dbpedia-owl:wikiPageRevisionID
49563794
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
category-ja:1333年没 dbpedia-ja:高麗 dbpedia-ja:江陵県 dbpedia-ja:中書省 category-ja:生年不明 dbpedia-ja:1332年 dbpedia-ja:1333年 dbpedia-ja:モンケ dbpedia-ja:1335年 dbpedia-ja:1328年 dbpedia-ja:ダウラト・シャー dbpedia-ja:1329年 dbpedia-ja:トク・テムル category-ja:元代の人物 dbpedia-ja:カイシャン n14: dbpedia-ja:トゴン・テムル dbpedia-ja:カイドゥ dbpedia-ja:広西チワン族自治区 dbpedia-ja:モンゴル高原 dbpedia-ja:アルタイ山脈 dbpedia-ja:皇太子 dbpedia-ja:モンゴル帝国 dbpedia-ja:玉璽 dbpedia-ja:キプチャク dbpedia-ja:大都 dbpedia-ja:摂政 category-ja:キプチャク dbpedia-ja:コシラ dbpedia-ja:オゴデイ・ハン国 dbpedia-ja:カラコルム n11: dbpedia-ja:イェスン・テムル dbpedia-ja:中国 dbpedia-ja:ブダシリ dbpedia-ja:イリンジバル n17: dbpedia-ja:ハーン dbpedia-ja:上都 dbpedia-ja:アリギバ dbpedia-ja:クビライ
dcterms:subject
category-ja:元代の人物 category-ja:1333年没 category-ja:キプチャク category-ja:生年不明
Subject Item
dbpedia-ja:ダウラト・シャー
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:ブダシリ
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
n15:
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル
Subject Item
dbpedia-ja:燕鉄木児
dbpedia-owl:wikiPageRedirects
dbpedia-ja:エル・テムル
dbpedia-owl:wikiPageWikiLink
dbpedia-ja:エル・テムル