鍋島 茂昌(なべしま しげはる)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島家第10代当主。第29代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島上総の名で呼ばれることが多い。 安政6年(1859年)、佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に就任し、戊辰戦争に際しては近代化された武雄領兵を率いて渡海し、窮地に陥っていた新政府側の久保田藩を救援し、奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利するなど勲功を挙げる。しかし封建的な性格のため、兵部省出仕の招請を断り武雄に隠棲、明治7年(1874年)の佐賀の乱に際しては、乱への加担を断る。明治30年(1897年)、男爵となる。

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  • 鍋島 茂昌(なべしま しげはる)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島家第10代当主。第29代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島上総の名で呼ばれることが多い。 安政6年(1859年)、佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に就任し、戊辰戦争に際しては近代化された武雄領兵を率いて渡海し、窮地に陥っていた新政府側の久保田藩を救援し、奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利するなど勲功を挙げる。しかし封建的な性格のため、兵部省出仕の招請を断り武雄に隠棲、明治7年(1874年)の佐賀の乱に際しては、乱への加担を断る。明治30年(1897年)、男爵となる。 (ja)
  • 鍋島 茂昌(なべしま しげはる)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島家第10代当主。第29代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島上総の名で呼ばれることが多い。 安政6年(1859年)、佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に就任し、戊辰戦争に際しては近代化された武雄領兵を率いて渡海し、窮地に陥っていた新政府側の久保田藩を救援し、奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利するなど勲功を挙げる。しかし封建的な性格のため、兵部省出仕の招請を断り武雄に隠棲、明治7年(1874年)の佐賀の乱に際しては、乱への加担を断る。明治30年(1897年)、男爵となる。 (ja)
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  • 鍋島 茂昌(なべしま しげはる)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島家第10代当主。第29代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島上総の名で呼ばれることが多い。 安政6年(1859年)、佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に就任し、戊辰戦争に際しては近代化された武雄領兵を率いて渡海し、窮地に陥っていた新政府側の久保田藩を救援し、奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利するなど勲功を挙げる。しかし封建的な性格のため、兵部省出仕の招請を断り武雄に隠棲、明治7年(1874年)の佐賀の乱に際しては、乱への加担を断る。明治30年(1897年)、男爵となる。 (ja)
  • 鍋島 茂昌(なべしま しげはる)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島家第10代当主。第29代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島上総の名で呼ばれることが多い。 安政6年(1859年)、佐賀藩の請役(藩務を総理する執政職)に就任し、戊辰戦争に際しては近代化された武雄領兵を率いて渡海し、窮地に陥っていた新政府側の久保田藩を救援し、奥羽越列藩同盟の精鋭庄内藩に勝利するなど勲功を挙げる。しかし封建的な性格のため、兵部省出仕の招請を断り武雄に隠棲、明治7年(1874年)の佐賀の乱に際しては、乱への加担を断る。明治30年(1897年)、男爵となる。 (ja)
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