采石磯の戦い(さいせききのたたかい、中国語: 采石磯之戰)、または采石の戦い(さいせきのたたかい、中: 采石之戰)は宋金戦争中の1161年11月26日から27日にかけて行われた戦闘。女真族王朝である金の海陵王率いる軍勢が長江を渡って南宋に侵攻しようとした中、と士大夫の虞允文率いる南宋軍は(火薬入りの砲弾を使用する投石機)を装備した(戦船)で迎撃、軽い船を使用した金の海軍を決定的に破った。 1125年より、金は淮河以北の領土を征服、1142年の紹興の和議で宋金間の国境線を定めて、中国北部を支配、南宋が南部を支配した。しかし、1150年に金の皇帝に即位した海陵王は統一を目指し、1158年に南宋が紹興の和議に違反したと主張して戦争の口実とした。翌年に戦争準備を始め、健康な男性全員に徴兵令を発したが、徴兵令は不評で反乱が勃発する結果となった(後に鎮圧)。金軍は1161年10月15日に開封を発ち、南宋軍からの抵抗をほとんど受けずに淮河から長江まで前進した。 南宋は長江を前線として要塞化しており、海陵王はで渡河しようとし、11月26日に采石磯で渡河を始めたが、そこで虞允文率いる南宋艦隊との戦闘をはじめた。戦闘の結果は金軍が敗北して揚州に撤退、直後に海陵王が部下に暗殺された。このとき、金は本国の宮廷で政変がおきており、世宗が代わって即位したのであった。1165年、が締結され、宋金戦争が終結した。

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  • 采石磯の戦い(さいせききのたたかい、中国語: 采石磯之戰)、または采石の戦い(さいせきのたたかい、中: 采石之戰)は宋金戦争中の1161年11月26日から27日にかけて行われた戦闘。女真族王朝である金の海陵王率いる軍勢が長江を渡って南宋に侵攻しようとした中、と士大夫の虞允文率いる南宋軍は(火薬入りの砲弾を使用する投石機)を装備した(戦船)で迎撃、軽い船を使用した金の海軍を決定的に破った。 1125年より、金は淮河以北の領土を征服、1142年の紹興の和議で宋金間の国境線を定めて、中国北部を支配、南宋が南部を支配した。しかし、1150年に金の皇帝に即位した海陵王は統一を目指し、1158年に南宋が紹興の和議に違反したと主張して戦争の口実とした。翌年に戦争準備を始め、健康な男性全員に徴兵令を発したが、徴兵令は不評で反乱が勃発する結果となった(後に鎮圧)。金軍は1161年10月15日に開封を発ち、南宋軍からの抵抗をほとんど受けずに淮河から長江まで前進した。 南宋は長江を前線として要塞化しており、海陵王はで渡河しようとし、11月26日に采石磯で渡河を始めたが、そこで虞允文率いる南宋艦隊との戦闘をはじめた。戦闘の結果は金軍が敗北して揚州に撤退、直後に海陵王が部下に暗殺された。このとき、金は本国の宮廷で政変がおきており、世宗が代わって即位したのであった。1165年、が締結され、宋金戦争が終結した。 南宋側の文献では金軍の人数と損害を過大評価した可能性が高いが、南宋軍の人数とされる18,000人はつじつまが合うとされる。現代の研究では采石磯の戦いが実は小規模な戦闘で、両軍の勢力の差は以前の文献で述べられた程度より小さいという。いずれにしても、戦闘の勝利は南宋軍の士気を高め、金軍の南進が食い止められる結果となった。 (ja)
  • 采石磯の戦い(さいせききのたたかい、中国語: 采石磯之戰)、または采石の戦い(さいせきのたたかい、中: 采石之戰)は宋金戦争中の1161年11月26日から27日にかけて行われた戦闘。女真族王朝である金の海陵王率いる軍勢が長江を渡って南宋に侵攻しようとした中、と士大夫の虞允文率いる南宋軍は(火薬入りの砲弾を使用する投石機)を装備した(戦船)で迎撃、軽い船を使用した金の海軍を決定的に破った。 1125年より、金は淮河以北の領土を征服、1142年の紹興の和議で宋金間の国境線を定めて、中国北部を支配、南宋が南部を支配した。しかし、1150年に金の皇帝に即位した海陵王は統一を目指し、1158年に南宋が紹興の和議に違反したと主張して戦争の口実とした。翌年に戦争準備を始め、健康な男性全員に徴兵令を発したが、徴兵令は不評で反乱が勃発する結果となった(後に鎮圧)。金軍は1161年10月15日に開封を発ち、南宋軍からの抵抗をほとんど受けずに淮河から長江まで前進した。 南宋は長江を前線として要塞化しており、海陵王はで渡河しようとし、11月26日に采石磯で渡河を始めたが、そこで虞允文率いる南宋艦隊との戦闘をはじめた。戦闘の結果は金軍が敗北して揚州に撤退、直後に海陵王が部下に暗殺された。このとき、金は本国の宮廷で政変がおきており、世宗が代わって即位したのであった。1165年、が締結され、宋金戦争が終結した。 南宋側の文献では金軍の人数と損害を過大評価した可能性が高いが、南宋軍の人数とされる18,000人はつじつまが合うとされる。現代の研究では采石磯の戦いが実は小規模な戦闘で、両軍の勢力の差は以前の文献で述べられた程度より小さいという。いずれにしても、戦闘の勝利は南宋軍の士気を高め、金軍の南進が食い止められる結果となった。 (ja)
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  • 采石磯の戦い(さいせききのたたかい、中国語: 采石磯之戰)、または采石の戦い(さいせきのたたかい、中: 采石之戰)は宋金戦争中の1161年11月26日から27日にかけて行われた戦闘。女真族王朝である金の海陵王率いる軍勢が長江を渡って南宋に侵攻しようとした中、と士大夫の虞允文率いる南宋軍は(火薬入りの砲弾を使用する投石機)を装備した(戦船)で迎撃、軽い船を使用した金の海軍を決定的に破った。 1125年より、金は淮河以北の領土を征服、1142年の紹興の和議で宋金間の国境線を定めて、中国北部を支配、南宋が南部を支配した。しかし、1150年に金の皇帝に即位した海陵王は統一を目指し、1158年に南宋が紹興の和議に違反したと主張して戦争の口実とした。翌年に戦争準備を始め、健康な男性全員に徴兵令を発したが、徴兵令は不評で反乱が勃発する結果となった(後に鎮圧)。金軍は1161年10月15日に開封を発ち、南宋軍からの抵抗をほとんど受けずに淮河から長江まで前進した。 南宋は長江を前線として要塞化しており、海陵王はで渡河しようとし、11月26日に采石磯で渡河を始めたが、そこで虞允文率いる南宋艦隊との戦闘をはじめた。戦闘の結果は金軍が敗北して揚州に撤退、直後に海陵王が部下に暗殺された。このとき、金は本国の宮廷で政変がおきており、世宗が代わって即位したのであった。1165年、が締結され、宋金戦争が終結した。 (ja)
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