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- 酒井 忠尚(さかい ただなお、生没年未詳)は、戦国時代の武将。松平氏(徳川氏)の家臣で、三河主である。通称は将監。 の子で、酒井忠次の叔父にあたるといわれているが、関係などは諸説あって定かではない。松平広忠の時代から松平氏に仕えた重臣であり、広忠没後は松平元康(徳川家康)に仕えて重臣として松平家の文書に署名をしているが、今川義元からは元康と別の扱いにされる(「岡崎并上野人数」)程の勢力を持ち、自立性も有していた。 永禄6年(1563年)になって元康に対して挙兵し、6月には出陣した元康に対して上野城に籠城している。通説では三河一向一揆に与したとされているが、忠尚の挙兵の方が一向一揆よりも早く、一揆側と連絡を取っていた形跡は認められない(一向一揆が岡崎城に迫っていた同年12月の段階でも忠尚は籠城を続けて反撃に出た形跡が見受けられない)。翌年春に元康と一向一揆が和議を結んだ後も抵抗を続けており、『』によればその没落は永禄7年9月6日のこととされる。 その後、忠尚は、上野城から逃亡して駿河に逃れたといわれ、その後の行方は不明である。 なお、忠尚の子孫を称した紀州藩士酒井与三郎正定から寛政年間に藩に出された由緒書によれば、忠尚が駿河で死んだ後、嫡子の与三郎重元は後北条氏に仕えたが後に病のために同氏を去って浪人となり、後を継いだ嫡子の重興が万治年間になって紀州藩に召し抱えられたという。 (ja)
- 酒井 忠尚(さかい ただなお、生没年未詳)は、戦国時代の武将。松平氏(徳川氏)の家臣で、三河主である。通称は将監。 の子で、酒井忠次の叔父にあたるといわれているが、関係などは諸説あって定かではない。松平広忠の時代から松平氏に仕えた重臣であり、広忠没後は松平元康(徳川家康)に仕えて重臣として松平家の文書に署名をしているが、今川義元からは元康と別の扱いにされる(「岡崎并上野人数」)程の勢力を持ち、自立性も有していた。 永禄6年(1563年)になって元康に対して挙兵し、6月には出陣した元康に対して上野城に籠城している。通説では三河一向一揆に与したとされているが、忠尚の挙兵の方が一向一揆よりも早く、一揆側と連絡を取っていた形跡は認められない(一向一揆が岡崎城に迫っていた同年12月の段階でも忠尚は籠城を続けて反撃に出た形跡が見受けられない)。翌年春に元康と一向一揆が和議を結んだ後も抵抗を続けており、『』によればその没落は永禄7年9月6日のこととされる。 その後、忠尚は、上野城から逃亡して駿河に逃れたといわれ、その後の行方は不明である。 なお、忠尚の子孫を称した紀州藩士酒井与三郎正定から寛政年間に藩に出された由緒書によれば、忠尚が駿河で死んだ後、嫡子の与三郎重元は後北条氏に仕えたが後に病のために同氏を去って浪人となり、後を継いだ嫡子の重興が万治年間になって紀州藩に召し抱えられたという。 (ja)
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- 酒井 忠尚(さかい ただなお、生没年未詳)は、戦国時代の武将。松平氏(徳川氏)の家臣で、三河主である。通称は将監。 の子で、酒井忠次の叔父にあたるといわれているが、関係などは諸説あって定かではない。松平広忠の時代から松平氏に仕えた重臣であり、広忠没後は松平元康(徳川家康)に仕えて重臣として松平家の文書に署名をしているが、今川義元からは元康と別の扱いにされる(「岡崎并上野人数」)程の勢力を持ち、自立性も有していた。 永禄6年(1563年)になって元康に対して挙兵し、6月には出陣した元康に対して上野城に籠城している。通説では三河一向一揆に与したとされているが、忠尚の挙兵の方が一向一揆よりも早く、一揆側と連絡を取っていた形跡は認められない(一向一揆が岡崎城に迫っていた同年12月の段階でも忠尚は籠城を続けて反撃に出た形跡が見受けられない)。翌年春に元康と一向一揆が和議を結んだ後も抵抗を続けており、『』によればその没落は永禄7年9月6日のこととされる。 その後、忠尚は、上野城から逃亡して駿河に逃れたといわれ、その後の行方は不明である。 なお、忠尚の子孫を称した紀州藩士酒井与三郎正定から寛政年間に藩に出された由緒書によれば、忠尚が駿河で死んだ後、嫡子の与三郎重元は後北条氏に仕えたが後に病のために同氏を去って浪人となり、後を継いだ嫡子の重興が万治年間になって紀州藩に召し抱えられたという。 (ja)
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