鄭 樵(てい しょう、崇寧3年(1104年) - 紹興32年3月7日(1162年4月26日))は、中国南宋初期の歴史家で、『通志』の撰者である。字は漁仲、号は夾漈先生。興化軍興化県広業里(現在の福建省莆田市涵江区)の出身。 若い間に諸国を歴遊して蔵書家のもとを経巡り、知識を吸収した。 紹興19年(1149年)、高宗に『通志』の中でも名高い二十略に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たすも、宰相秦檜による強権政治の被害者の一人として、地方官に出されてしまう。しかしその間も『通志』に繋がる著述活動を中断することなく、枢密院編修官として中央への復帰を果たす。 南宋にとって外患であった金の官制調査を思い、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における現代史への強い興味を意味している。 紹興31年(1161年)、開封に遷都を果たしていた金と南宋との対立は激化し、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた『通志』200巻の献上を命じられたが、まもなく病没した。 他に著作として『爾雅注』3巻や『夾漈遺稿』などがある。 鄭樵の歴史家としての評価を与えたのは、清の章学誠である。

Property Value
dbo:abstract
  • 鄭 樵(てい しょう、崇寧3年(1104年) - 紹興32年3月7日(1162年4月26日))は、中国南宋初期の歴史家で、『通志』の撰者である。字は漁仲、号は夾漈先生。興化軍興化県広業里(現在の福建省莆田市涵江区)の出身。 若い間に諸国を歴遊して蔵書家のもとを経巡り、知識を吸収した。 紹興19年(1149年)、高宗に『通志』の中でも名高い二十略に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たすも、宰相秦檜による強権政治の被害者の一人として、地方官に出されてしまう。しかしその間も『通志』に繋がる著述活動を中断することなく、枢密院編修官として中央への復帰を果たす。 南宋にとって外患であった金の官制調査を思い、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における現代史への強い興味を意味している。 紹興31年(1161年)、開封に遷都を果たしていた金と南宋との対立は激化し、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた『通志』200巻の献上を命じられたが、まもなく病没した。 他に著作として『爾雅注』3巻や『夾漈遺稿』などがある。 鄭樵の歴史家としての評価を与えたのは、清の章学誠である。 (ja)
  • 鄭 樵(てい しょう、崇寧3年(1104年) - 紹興32年3月7日(1162年4月26日))は、中国南宋初期の歴史家で、『通志』の撰者である。字は漁仲、号は夾漈先生。興化軍興化県広業里(現在の福建省莆田市涵江区)の出身。 若い間に諸国を歴遊して蔵書家のもとを経巡り、知識を吸収した。 紹興19年(1149年)、高宗に『通志』の中でも名高い二十略に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たすも、宰相秦檜による強権政治の被害者の一人として、地方官に出されてしまう。しかしその間も『通志』に繋がる著述活動を中断することなく、枢密院編修官として中央への復帰を果たす。 南宋にとって外患であった金の官制調査を思い、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における現代史への強い興味を意味している。 紹興31年(1161年)、開封に遷都を果たしていた金と南宋との対立は激化し、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた『通志』200巻の献上を命じられたが、まもなく病没した。 他に著作として『爾雅注』3巻や『夾漈遺稿』などがある。 鄭樵の歴史家としての評価を与えたのは、清の章学誠である。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 540120 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 956 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 87081967 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:date
  • 2012 (xsd:integer)
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:ソートキー
  • 人1162年没 (ja)
  • 人1162年没 (ja)
dct:subject
rdfs:comment
  • 鄭 樵(てい しょう、崇寧3年(1104年) - 紹興32年3月7日(1162年4月26日))は、中国南宋初期の歴史家で、『通志』の撰者である。字は漁仲、号は夾漈先生。興化軍興化県広業里(現在の福建省莆田市涵江区)の出身。 若い間に諸国を歴遊して蔵書家のもとを経巡り、知識を吸収した。 紹興19年(1149年)、高宗に『通志』の中でも名高い二十略に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たすも、宰相秦檜による強権政治の被害者の一人として、地方官に出されてしまう。しかしその間も『通志』に繋がる著述活動を中断することなく、枢密院編修官として中央への復帰を果たす。 南宋にとって外患であった金の官制調査を思い、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における現代史への強い興味を意味している。 紹興31年(1161年)、開封に遷都を果たしていた金と南宋との対立は激化し、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた『通志』200巻の献上を命じられたが、まもなく病没した。 他に著作として『爾雅注』3巻や『夾漈遺稿』などがある。 鄭樵の歴史家としての評価を与えたのは、清の章学誠である。 (ja)
  • 鄭 樵(てい しょう、崇寧3年(1104年) - 紹興32年3月7日(1162年4月26日))は、中国南宋初期の歴史家で、『通志』の撰者である。字は漁仲、号は夾漈先生。興化軍興化県広業里(現在の福建省莆田市涵江区)の出身。 若い間に諸国を歴遊して蔵書家のもとを経巡り、知識を吸収した。 紹興19年(1149年)、高宗に『通志』の中でも名高い二十略に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たすも、宰相秦檜による強権政治の被害者の一人として、地方官に出されてしまう。しかしその間も『通志』に繋がる著述活動を中断することなく、枢密院編修官として中央への復帰を果たす。 南宋にとって外患であった金の官制調査を思い、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における現代史への強い興味を意味している。 紹興31年(1161年)、開封に遷都を果たしていた金と南宋との対立は激化し、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた『通志』200巻の献上を命じられたが、まもなく病没した。 他に著作として『爾雅注』3巻や『夾漈遺稿』などがある。 鄭樵の歴史家としての評価を与えたのは、清の章学誠である。 (ja)
rdfs:label
  • 鄭樵 (ja)
  • 鄭樵 (ja)
owl:sameAs
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of