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- 松宮 観山(まつみや かんざん、1686年(貞享3年) - 1780年7月25日(安永9年6月24日))は、江戸時代中期の儒学者・思想家・兵学者である。北条氏長(旗本。北条流兵学者。小幡景憲弟子)の子であるの弟子。別名、「俊仍(しゅんじょう)」、「左司馬」とも称せられる。観山は北条氏如とともに全国各地に赴き見聞を深め、晩年は著述や教授を業とした。 宝暦・明和事件に連座したため、当時の藩士らに影響を与えたと推察される主著『学論』や『三教要論』の版木などが悉く幕府によって没収棄却され、現在伝わるものは自筆本又は写本によってが殆どである。 観山の思想の根底になすものは『武学』であり、それは北条流兵学の宋師としての自負に裏打ちされているものである。三教要論によって、儒学、神道、仏教の三つの教について述べ、宋学(朱子学)を基本としつつ日本の風土に根ざした学問の大系を求め、実態社会から離れた理論を確立するために儒学の主体を漢土に求めた徂徠学に対して批判を行い、あらゆる学問としての基本条件を、国体との内面的関連を無視すべきではないという国学へと繋がる主張を展開した。 (ja)
- 松宮 観山(まつみや かんざん、1686年(貞享3年) - 1780年7月25日(安永9年6月24日))は、江戸時代中期の儒学者・思想家・兵学者である。北条氏長(旗本。北条流兵学者。小幡景憲弟子)の子であるの弟子。別名、「俊仍(しゅんじょう)」、「左司馬」とも称せられる。観山は北条氏如とともに全国各地に赴き見聞を深め、晩年は著述や教授を業とした。 宝暦・明和事件に連座したため、当時の藩士らに影響を与えたと推察される主著『学論』や『三教要論』の版木などが悉く幕府によって没収棄却され、現在伝わるものは自筆本又は写本によってが殆どである。 観山の思想の根底になすものは『武学』であり、それは北条流兵学の宋師としての自負に裏打ちされているものである。三教要論によって、儒学、神道、仏教の三つの教について述べ、宋学(朱子学)を基本としつつ日本の風土に根ざした学問の大系を求め、実態社会から離れた理論を確立するために儒学の主体を漢土に求めた徂徠学に対して批判を行い、あらゆる学問としての基本条件を、国体との内面的関連を無視すべきではないという国学へと繋がる主張を展開した。 (ja)
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- 松宮 観山(まつみや かんざん、1686年(貞享3年) - 1780年7月25日(安永9年6月24日))は、江戸時代中期の儒学者・思想家・兵学者である。北条氏長(旗本。北条流兵学者。小幡景憲弟子)の子であるの弟子。別名、「俊仍(しゅんじょう)」、「左司馬」とも称せられる。観山は北条氏如とともに全国各地に赴き見聞を深め、晩年は著述や教授を業とした。 宝暦・明和事件に連座したため、当時の藩士らに影響を与えたと推察される主著『学論』や『三教要論』の版木などが悉く幕府によって没収棄却され、現在伝わるものは自筆本又は写本によってが殆どである。 観山の思想の根底になすものは『武学』であり、それは北条流兵学の宋師としての自負に裏打ちされているものである。三教要論によって、儒学、神道、仏教の三つの教について述べ、宋学(朱子学)を基本としつつ日本の風土に根ざした学問の大系を求め、実態社会から離れた理論を確立するために儒学の主体を漢土に求めた徂徠学に対して批判を行い、あらゆる学問としての基本条件を、国体との内面的関連を無視すべきではないという国学へと繋がる主張を展開した。 (ja)
- 松宮 観山(まつみや かんざん、1686年(貞享3年) - 1780年7月25日(安永9年6月24日))は、江戸時代中期の儒学者・思想家・兵学者である。北条氏長(旗本。北条流兵学者。小幡景憲弟子)の子であるの弟子。別名、「俊仍(しゅんじょう)」、「左司馬」とも称せられる。観山は北条氏如とともに全国各地に赴き見聞を深め、晩年は著述や教授を業とした。 宝暦・明和事件に連座したため、当時の藩士らに影響を与えたと推察される主著『学論』や『三教要論』の版木などが悉く幕府によって没収棄却され、現在伝わるものは自筆本又は写本によってが殆どである。 観山の思想の根底になすものは『武学』であり、それは北条流兵学の宋師としての自負に裏打ちされているものである。三教要論によって、儒学、神道、仏教の三つの教について述べ、宋学(朱子学)を基本としつつ日本の風土に根ざした学問の大系を求め、実態社会から離れた理論を確立するために儒学の主体を漢土に求めた徂徠学に対して批判を行い、あらゆる学問としての基本条件を、国体との内面的関連を無視すべきではないという国学へと繋がる主張を展開した。 (ja)
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