崔 沆(チェ・ハン、大安元年(1209年) - 宝祐5年閏4月2日(1257年5月17日))は、高麗の武臣・権臣・政治家である。武臣政権の第7代執権者。 初名は萬全(マンジョン)、法名は法祐。崔瑀の庶子で、崔忠献の孫にあたる。一時期、双峰寺の住職になったが、父の命により還俗し、上護軍と戸部尚書を経て枢密院副使・吏兵二部尚書に上った。後に中書令に達し、晋平公に追封された。