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- 室賀 正俊(むろが まさとし)は、江戸時代の旗本、館林藩附家老。屋代秀正の次男として生まれ、室賀満俊の養子となる。室は上田重秀の娘。子に女子(室賀正信室)、室賀正勝、女子(室)、女子(室)。婿養子に室賀正信。 元和7年(1621年)より将軍徳川家光に仕える。寛永3年(1626年)、養父・満俊の遺跡を継いで1000石を知行し、小姓組番士となる。寛永10年(1633年)に200石を加増。寛永16年(1639年)に小十人頭となる。慶安元年(1648年)に家光の子の館林藩主徳松(徳川綱吉)の附家老とされ、武蔵国・上野国内の1800石を加増されて所領が3000石となる。承応2年(1653年)従五位下、下総守に叙任。寛文元年(1661年)、武蔵国・上野国内で更に4200石を加えられ、7200石を知行する。寛文3年(1663年)、1200石を婿養子・正信に分知し、致仕。天和元年(1681年)に72歳で死去。 嫡男正勝の時、綱吉が将軍になると幕臣に復し、子孫は5500石の大身の旗本として存続した。養子の正信は中山直定の四男で、正俊の娘を娶り別家を創設した。 (ja)
- 室賀 正俊(むろが まさとし)は、江戸時代の旗本、館林藩附家老。屋代秀正の次男として生まれ、室賀満俊の養子となる。室は上田重秀の娘。子に女子(室賀正信室)、室賀正勝、女子(室)、女子(室)。婿養子に室賀正信。 元和7年(1621年)より将軍徳川家光に仕える。寛永3年(1626年)、養父・満俊の遺跡を継いで1000石を知行し、小姓組番士となる。寛永10年(1633年)に200石を加増。寛永16年(1639年)に小十人頭となる。慶安元年(1648年)に家光の子の館林藩主徳松(徳川綱吉)の附家老とされ、武蔵国・上野国内の1800石を加増されて所領が3000石となる。承応2年(1653年)従五位下、下総守に叙任。寛文元年(1661年)、武蔵国・上野国内で更に4200石を加えられ、7200石を知行する。寛文3年(1663年)、1200石を婿養子・正信に分知し、致仕。天和元年(1681年)に72歳で死去。 嫡男正勝の時、綱吉が将軍になると幕臣に復し、子孫は5500石の大身の旗本として存続した。養子の正信は中山直定の四男で、正俊の娘を娶り別家を創設した。 (ja)
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- 意休(法名) (ja)
- 源七郎(通称) (ja)
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- 源七郎(通称) (ja)
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prop-ja:墓所
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- 宗参寺(東京都新宿区) (ja)
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- 養子:室賀正信、養女(正信の娘、嶋一信室) (ja)
- 娘(室賀正信室)、室賀正勝、娘(佐野政信室)、娘(舟橋玄恂室) (ja)
- 養子:室賀正信、養女(正信の娘、嶋一信室) (ja)
- 娘(室賀正信室)、室賀正勝、娘(佐野政信室)、娘(舟橋玄恂室) (ja)
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- 従五位下、下総守 (ja)
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- 父:屋代秀正、養父:室賀満俊 (ja)
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- 慶長15年(1610年) (ja)
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- 室賀 正俊(むろが まさとし)は、江戸時代の旗本、館林藩附家老。屋代秀正の次男として生まれ、室賀満俊の養子となる。室は上田重秀の娘。子に女子(室賀正信室)、室賀正勝、女子(室)、女子(室)。婿養子に室賀正信。 元和7年(1621年)より将軍徳川家光に仕える。寛永3年(1626年)、養父・満俊の遺跡を継いで1000石を知行し、小姓組番士となる。寛永10年(1633年)に200石を加増。寛永16年(1639年)に小十人頭となる。慶安元年(1648年)に家光の子の館林藩主徳松(徳川綱吉)の附家老とされ、武蔵国・上野国内の1800石を加増されて所領が3000石となる。承応2年(1653年)従五位下、下総守に叙任。寛文元年(1661年)、武蔵国・上野国内で更に4200石を加えられ、7200石を知行する。寛文3年(1663年)、1200石を婿養子・正信に分知し、致仕。天和元年(1681年)に72歳で死去。 嫡男正勝の時、綱吉が将軍になると幕臣に復し、子孫は5500石の大身の旗本として存続した。養子の正信は中山直定の四男で、正俊の娘を娶り別家を創設した。 (ja)
- 室賀 正俊(むろが まさとし)は、江戸時代の旗本、館林藩附家老。屋代秀正の次男として生まれ、室賀満俊の養子となる。室は上田重秀の娘。子に女子(室賀正信室)、室賀正勝、女子(室)、女子(室)。婿養子に室賀正信。 元和7年(1621年)より将軍徳川家光に仕える。寛永3年(1626年)、養父・満俊の遺跡を継いで1000石を知行し、小姓組番士となる。寛永10年(1633年)に200石を加増。寛永16年(1639年)に小十人頭となる。慶安元年(1648年)に家光の子の館林藩主徳松(徳川綱吉)の附家老とされ、武蔵国・上野国内の1800石を加増されて所領が3000石となる。承応2年(1653年)従五位下、下総守に叙任。寛文元年(1661年)、武蔵国・上野国内で更に4200石を加えられ、7200石を知行する。寛文3年(1663年)、1200石を婿養子・正信に分知し、致仕。天和元年(1681年)に72歳で死去。 嫡男正勝の時、綱吉が将軍になると幕臣に復し、子孫は5500石の大身の旗本として存続した。養子の正信は中山直定の四男で、正俊の娘を娶り別家を創設した。 (ja)
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