安 世高(あん せいこう、生没年不詳)は、後漢代に西域から渡来した訳経僧。字は世高。 安息国(パルティア)の太子であったが、王位を伯父に譲り、出家修道に志し、諸方を遊歴するようになった。安息国では、部派仏教に属する説一切有部が流行していたため、世高は禅観の法や阿毘達摩に通じていた。 桓帝代の建和2年(148年)に、都の洛陽に来朝した。その後、20年にわたって訳経を行い、34部40巻の部派仏教系の経典を漢訳した。 後世のは、「幅広く経典を修めていて、中でもアビダルマの学問に精通しており、禅に関する経典も暗誦し、その綱要をほぼ了解していた」と評している(『出三蔵記集』巻13)。 『高僧伝』巻1の記述では霊帝代の末期に関中・洛中の騒乱を避けて、老齢の身で江南に移ったという。会稽郡にたどりつきたまたま市に入ったとき、市中は殴り合いの騒乱の最中であり、世高は誤って頭を打たれて死亡したという。 一方で、『魏書』巻30の記述では、世高の子孫は西晋のころに騒乱を避けて遼東に移住し、そのまま家をなしたという。

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  • 安 世高(あん せいこう、生没年不詳)は、後漢代に西域から渡来した訳経僧。字は世高。 安息国(パルティア)の太子であったが、王位を伯父に譲り、出家修道に志し、諸方を遊歴するようになった。安息国では、部派仏教に属する説一切有部が流行していたため、世高は禅観の法や阿毘達摩に通じていた。 桓帝代の建和2年(148年)に、都の洛陽に来朝した。その後、20年にわたって訳経を行い、34部40巻の部派仏教系の経典を漢訳した。 後世のは、「幅広く経典を修めていて、中でもアビダルマの学問に精通しており、禅に関する経典も暗誦し、その綱要をほぼ了解していた」と評している(『出三蔵記集』巻13)。 『高僧伝』巻1の記述では霊帝代の末期に関中・洛中の騒乱を避けて、老齢の身で江南に移ったという。会稽郡にたどりつきたまたま市に入ったとき、市中は殴り合いの騒乱の最中であり、世高は誤って頭を打たれて死亡したという。 一方で、『魏書』巻30の記述では、世高の子孫は西晋のころに騒乱を避けて遼東に移住し、そのまま家をなしたという。 (ja)
  • 安 世高(あん せいこう、生没年不詳)は、後漢代に西域から渡来した訳経僧。字は世高。 安息国(パルティア)の太子であったが、王位を伯父に譲り、出家修道に志し、諸方を遊歴するようになった。安息国では、部派仏教に属する説一切有部が流行していたため、世高は禅観の法や阿毘達摩に通じていた。 桓帝代の建和2年(148年)に、都の洛陽に来朝した。その後、20年にわたって訳経を行い、34部40巻の部派仏教系の経典を漢訳した。 後世のは、「幅広く経典を修めていて、中でもアビダルマの学問に精通しており、禅に関する経典も暗誦し、その綱要をほぼ了解していた」と評している(『出三蔵記集』巻13)。 『高僧伝』巻1の記述では霊帝代の末期に関中・洛中の騒乱を避けて、老齢の身で江南に移ったという。会稽郡にたどりつきたまたま市に入ったとき、市中は殴り合いの騒乱の最中であり、世高は誤って頭を打たれて死亡したという。 一方で、『魏書』巻30の記述では、世高の子孫は西晋のころに騒乱を避けて遼東に移住し、そのまま家をなしたという。 (ja)
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  • 安 世高(あん せいこう、生没年不詳)は、後漢代に西域から渡来した訳経僧。字は世高。 安息国(パルティア)の太子であったが、王位を伯父に譲り、出家修道に志し、諸方を遊歴するようになった。安息国では、部派仏教に属する説一切有部が流行していたため、世高は禅観の法や阿毘達摩に通じていた。 桓帝代の建和2年(148年)に、都の洛陽に来朝した。その後、20年にわたって訳経を行い、34部40巻の部派仏教系の経典を漢訳した。 後世のは、「幅広く経典を修めていて、中でもアビダルマの学問に精通しており、禅に関する経典も暗誦し、その綱要をほぼ了解していた」と評している(『出三蔵記集』巻13)。 『高僧伝』巻1の記述では霊帝代の末期に関中・洛中の騒乱を避けて、老齢の身で江南に移ったという。会稽郡にたどりつきたまたま市に入ったとき、市中は殴り合いの騒乱の最中であり、世高は誤って頭を打たれて死亡したという。 一方で、『魏書』巻30の記述では、世高の子孫は西晋のころに騒乱を避けて遼東に移住し、そのまま家をなしたという。 (ja)
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  • 安世高 (ja)
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