ドロゴブージ公国(ロシア語: Дорогобужское княжество)は、トヴェリ大公国から分離し、ドロゴブージ(現ドロジャエヴォ)を首都として成立した、ルーシの分領公国である。公国は1318年から1486年の間にかけて存続した。 初代ドロゴブージ公はウラジーミル大公・トヴェリ公を歴任したミハイルの三男コンスタンチンであった。以下コンスタンチンの子孫がドロゴブージ公位を受け継ぎ、1486年にトヴェリ大公国がモスクワ大公国に吸収された1486年まで、ドロゴブージ公国を統治した。最後のドロゴブージ公はコンスタンチンの玄孫にあたるユーリーであり、1471年、1478年にはモスクワ大公イヴァン3世のノヴゴロド遠征に従軍していたことが、ルーシの年代記(レートピシ)に記されている。 なお、最後のドロゴブージ公は、ユーリーの兄弟のオシプ(ru)であるとみなす説もある。オシプは公国消滅後はモスクワ大公国に仕え、軍司令官(ヴォエヴォダ)として、1487年のカザン攻略戦など各地を転戦した。オシプの子イヴァンは貴族(ドヴォリャンスキー・ロード(ru))のポロシン家(ru)の祖となるが、ドロゴブージの公(クニャージ)の称号は消滅した。

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  • ドロゴブージ公国(ロシア語: Дорогобужское княжество)は、トヴェリ大公国から分離し、ドロゴブージ(現ドロジャエヴォ)を首都として成立した、ルーシの分領公国である。公国は1318年から1486年の間にかけて存続した。 初代ドロゴブージ公はウラジーミル大公・トヴェリ公を歴任したミハイルの三男コンスタンチンであった。以下コンスタンチンの子孫がドロゴブージ公位を受け継ぎ、1486年にトヴェリ大公国がモスクワ大公国に吸収された1486年まで、ドロゴブージ公国を統治した。最後のドロゴブージ公はコンスタンチンの玄孫にあたるユーリーであり、1471年、1478年にはモスクワ大公イヴァン3世のノヴゴロド遠征に従軍していたことが、ルーシの年代記(レートピシ)に記されている。 なお、最後のドロゴブージ公は、ユーリーの兄弟のオシプ(ru)であるとみなす説もある。オシプは公国消滅後はモスクワ大公国に仕え、軍司令官(ヴォエヴォダ)として、1487年のカザン攻略戦など各地を転戦した。オシプの子イヴァンは貴族(ドヴォリャンスキー・ロード(ru))のポロシン家(ru)の祖となるが、ドロゴブージの公(クニャージ)の称号は消滅した。 (ja)
  • ドロゴブージ公国(ロシア語: Дорогобужское княжество)は、トヴェリ大公国から分離し、ドロゴブージ(現ドロジャエヴォ)を首都として成立した、ルーシの分領公国である。公国は1318年から1486年の間にかけて存続した。 初代ドロゴブージ公はウラジーミル大公・トヴェリ公を歴任したミハイルの三男コンスタンチンであった。以下コンスタンチンの子孫がドロゴブージ公位を受け継ぎ、1486年にトヴェリ大公国がモスクワ大公国に吸収された1486年まで、ドロゴブージ公国を統治した。最後のドロゴブージ公はコンスタンチンの玄孫にあたるユーリーであり、1471年、1478年にはモスクワ大公イヴァン3世のノヴゴロド遠征に従軍していたことが、ルーシの年代記(レートピシ)に記されている。 なお、最後のドロゴブージ公は、ユーリーの兄弟のオシプ(ru)であるとみなす説もある。オシプは公国消滅後はモスクワ大公国に仕え、軍司令官(ヴォエヴォダ)として、1487年のカザン攻略戦など各地を転戦した。オシプの子イヴァンは貴族(ドヴォリャンスキー・ロード(ru))のポロシン家(ru)の祖となるが、ドロゴブージの公(クニャージ)の称号は消滅した。 (ja)
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  • ドロゴブージ公国(ロシア語: Дорогобужское княжество)は、トヴェリ大公国から分離し、ドロゴブージ(現ドロジャエヴォ)を首都として成立した、ルーシの分領公国である。公国は1318年から1486年の間にかけて存続した。 初代ドロゴブージ公はウラジーミル大公・トヴェリ公を歴任したミハイルの三男コンスタンチンであった。以下コンスタンチンの子孫がドロゴブージ公位を受け継ぎ、1486年にトヴェリ大公国がモスクワ大公国に吸収された1486年まで、ドロゴブージ公国を統治した。最後のドロゴブージ公はコンスタンチンの玄孫にあたるユーリーであり、1471年、1478年にはモスクワ大公イヴァン3世のノヴゴロド遠征に従軍していたことが、ルーシの年代記(レートピシ)に記されている。 なお、最後のドロゴブージ公は、ユーリーの兄弟のオシプ(ru)であるとみなす説もある。オシプは公国消滅後はモスクワ大公国に仕え、軍司令官(ヴォエヴォダ)として、1487年のカザン攻略戦など各地を転戦した。オシプの子イヴァンは貴族(ドヴォリャンスキー・ロード(ru))のポロシン家(ru)の祖となるが、ドロゴブージの公(クニャージ)の称号は消滅した。 (ja)
  • ドロゴブージ公国(ロシア語: Дорогобужское княжество)は、トヴェリ大公国から分離し、ドロゴブージ(現ドロジャエヴォ)を首都として成立した、ルーシの分領公国である。公国は1318年から1486年の間にかけて存続した。 初代ドロゴブージ公はウラジーミル大公・トヴェリ公を歴任したミハイルの三男コンスタンチンであった。以下コンスタンチンの子孫がドロゴブージ公位を受け継ぎ、1486年にトヴェリ大公国がモスクワ大公国に吸収された1486年まで、ドロゴブージ公国を統治した。最後のドロゴブージ公はコンスタンチンの玄孫にあたるユーリーであり、1471年、1478年にはモスクワ大公イヴァン3世のノヴゴロド遠征に従軍していたことが、ルーシの年代記(レートピシ)に記されている。 なお、最後のドロゴブージ公は、ユーリーの兄弟のオシプ(ru)であるとみなす説もある。オシプは公国消滅後はモスクワ大公国に仕え、軍司令官(ヴォエヴォダ)として、1487年のカザン攻略戦など各地を転戦した。オシプの子イヴァンは貴族(ドヴォリャンスキー・ロード(ru))のポロシン家(ru)の祖となるが、ドロゴブージの公(クニャージ)の称号は消滅した。 (ja)
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  • ドロゴブージ公国 (ドロジャエヴォ) (ja)
  • ドロゴブージ公国 (ドロジャエヴォ) (ja)
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