安城合戦(あんじょうかっせん)は、戦国時代に三河国の安城城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)までの約10年間に数次にわたって行われた合戦である。 最初の合戦は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の合戦は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなり、織田氏の三河進出は挫折した。一方、今川氏は安城松平領の押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。

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  • 安城合戦(あんじょうかっせん)は、戦国時代に三河国の安城城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)までの約10年間に数次にわたって行われた合戦である。 最初の合戦は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の合戦は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなり、織田氏の三河進出は挫折した。一方、今川氏は安城松平領の押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。 (ja)
  • 安城合戦(あんじょうかっせん)は、戦国時代に三河国の安城城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)までの約10年間に数次にわたって行われた合戦である。 最初の合戦は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の合戦は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなり、織田氏の三河進出は挫折した。一方、今川氏は安城松平領の押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。 (ja)
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  • 安城合戦(あんじょうかっせん)は、戦国時代に三河国の安城城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)までの約10年間に数次にわたって行われた合戦である。 最初の合戦は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の合戦は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなり、織田氏の三河進出は挫折した。一方、今川氏は安城松平領の押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。 (ja)
  • 安城合戦(あんじょうかっせん)は、戦国時代に三河国の安城城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)までの約10年間に数次にわたって行われた合戦である。 最初の合戦は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の合戦は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなり、織田氏の三河進出は挫折した。一方、今川氏は安城松平領の押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。 (ja)
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