1945年の日本プロ野球では、1945年に起きた日本の職業野球での出来事について説明する。 1944年11月、太平洋戦争の戦況悪化から、日本野球報国会は公式戦の休止を発表した。これにより、1945年の公式戦は開催されないことが決定したが、阪神が非公式戦の正月大会を企画した。阪神は、阪神・阪急・産業・朝日所属で関西近辺に残留している選手をかき集めて、1月1日から1月5日にかけて、兵庫県西宮市の2球場(西宮球場・甲子園球場)で大会を開催した。この大会が終戦前最後の職業野球であるとされている。 8月15日に終戦を迎えたが、兵役によりチームを離れた者や休止をきっかけにユニフォームを脱ぐ者が多かったため、職業野球の各チームは崩壊状態であった。終戦を機に各チームは再建に奔走し、終戦からちょうど100日目の11月23日に巨人・名古屋・セネタース(終戦後創立)の選手で編成された東軍と阪神・南海・阪急の選手で編成された西軍との「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」が神宮球場で開催された。その後も、群馬・兵庫で東西対抗戦が開催され、計4試合の職業野球の試合が開催された。