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- 羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、生没年不詳)は、中国の元末・明初の作家。『三国志演義』、『三遂平妖伝』、『残唐五代史演義』、『隋唐両朝志話』など数種の通俗白話小説の編者とされる。山西太原の人とされるが(『録鬼簿続編』)、山東東平の人とも言い(『三国志演義』蔣大器序など)、また浙江杭州の人とも言う(『七修類稿』)。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。 諱は本。貫中は字(『続文献通考』は諱を貫、字を本中とする)。号は湖海散人。四大奇書とされる『三国志演義』、『水滸伝』を「編した」とされる(『七修類稿』は「もともと原作があって、それをまとめたので『編した』というのだ」と説明する。『施耐庵墓志』では、施耐庵の原作を羅貫中がまとめたものだとしているが、疑わしい)。『西湖遊覧志余』には「小説数十種を編撰した」とあるが、現在、羅貫中が編者であることが確認できるのは数種である。また、同じく『西湖遊覧志余』によれば、通俗小説などという俗悪なものを書いたため、子孫三代が唖となったなどと悪評をたてられたという。 の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。 清代の俗説(『塔影園集』、『徐鈵所絵水滸一百単八将図題跋』)では、元末の混乱時に張士誠に仕えたとされ、「(『三国志演義』の)赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒の鄱陽湖の戦いをモデルにしていた」と言われる。しかし、彼に関する資料がとても少ないため、「三国志演義は、多くの講談師達が羅貫中の名を借りて出版した」という説もある。 (ja)
- 羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、生没年不詳)は、中国の元末・明初の作家。『三国志演義』、『三遂平妖伝』、『残唐五代史演義』、『隋唐両朝志話』など数種の通俗白話小説の編者とされる。山西太原の人とされるが(『録鬼簿続編』)、山東東平の人とも言い(『三国志演義』蔣大器序など)、また浙江杭州の人とも言う(『七修類稿』)。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。 諱は本。貫中は字(『続文献通考』は諱を貫、字を本中とする)。号は湖海散人。四大奇書とされる『三国志演義』、『水滸伝』を「編した」とされる(『七修類稿』は「もともと原作があって、それをまとめたので『編した』というのだ」と説明する。『施耐庵墓志』では、施耐庵の原作を羅貫中がまとめたものだとしているが、疑わしい)。『西湖遊覧志余』には「小説数十種を編撰した」とあるが、現在、羅貫中が編者であることが確認できるのは数種である。また、同じく『西湖遊覧志余』によれば、通俗小説などという俗悪なものを書いたため、子孫三代が唖となったなどと悪評をたてられたという。 の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。 清代の俗説(『塔影園集』、『徐鈵所絵水滸一百単八将図題跋』)では、元末の混乱時に張士誠に仕えたとされ、「(『三国志演義』の)赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒の鄱陽湖の戦いをモデルにしていた」と言われる。しかし、彼に関する資料がとても少ないため、「三国志演義は、多くの講談師達が羅貫中の名を借りて出版した」という説もある。 (ja)
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- 羅 貫中(ら かんちゅう、簡体字: 罗贯中、生没年不詳)は、中国の元末・明初の作家。『三国志演義』、『三遂平妖伝』、『残唐五代史演義』、『隋唐両朝志話』など数種の通俗白話小説の編者とされる。山西太原の人とされるが(『録鬼簿続編』)、山東東平の人とも言い(『三国志演義』蔣大器序など)、また浙江杭州の人とも言う(『七修類稿』)。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。 諱は本。貫中は字(『続文献通考』は諱を貫、字を本中とする)。号は湖海散人。四大奇書とされる『三国志演義』、『水滸伝』を「編した」とされる(『七修類稿』は「もともと原作があって、それをまとめたので『編した』というのだ」と説明する。『施耐庵墓志』では、施耐庵の原作を羅貫中がまとめたものだとしているが、疑わしい)。『西湖遊覧志余』には「小説数十種を編撰した」とあるが、現在、羅貫中が編者であることが確認できるのは数種である。また、同じく『西湖遊覧志余』によれば、通俗小説などという俗悪なものを書いたため、子孫三代が唖となったなどと悪評をたてられたという。 の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。 (ja)
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