若杉 鳥子(わかすぎ とりこ、1892年(明治25年)12月25日 - 1937年(昭和12年)12月18日)は、日本の小説家、歌人。 古河の豪商と神田のの女中の庶子として、東京下谷に生まれる。間もなく古河の芸者置屋の若杉はなの養女となる。養家から里子に出され、古河高等小学校を卒業。12歳の頃から『女子文壇』『文章世界』などに投稿を始め、横瀬夜雨に師事する。家業を厭い、明治40年(1907年)に上京、中央新聞の記者となる。 投稿仲間の水野仙子、今井邦子らと知り合い、19歳でと結婚。勝忠は備中高梁城主の板倉勝弼の庶子で、鳥子は「子爵令弟夫人」となる。大正6年(1917年)には長女を伝染病で失う。 若山牧水主宰の『創作』などに短歌を発表、生田春月主宰の『詩と人生』、島崎藤村主宰の『處女地』などへの投稿を経て、大正14年(1925年)に『文藝戦線』に発表された「烈日」で作家として評価を受ける。大正15年(1926年)、新居格らが結成した西郊共働社(後の)に参加し、消費組合運動に関わるようになる。昭和3年(1928年)には『女人芸術』に「古鏡」を発表。 昭和12年(1937年)、46歳で死去。死因については、睡眠薬の飲用過多、心臓麻痺および喘息、脳溢血、倒れて顔を打ってそのまま亡くなったなど諸説ある。 翌年、遺稿集『帰郷』が刊行される。また、古河市に文学碑がある。

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  • 若杉 鳥子(わかすぎ とりこ、1892年(明治25年)12月25日 - 1937年(昭和12年)12月18日)は、日本の小説家、歌人。 古河の豪商と神田のの女中の庶子として、東京下谷に生まれる。間もなく古河の芸者置屋の若杉はなの養女となる。養家から里子に出され、古河高等小学校を卒業。12歳の頃から『女子文壇』『文章世界』などに投稿を始め、横瀬夜雨に師事する。家業を厭い、明治40年(1907年)に上京、中央新聞の記者となる。 投稿仲間の水野仙子、今井邦子らと知り合い、19歳でと結婚。勝忠は備中高梁城主の板倉勝弼の庶子で、鳥子は「子爵令弟夫人」となる。大正6年(1917年)には長女を伝染病で失う。 若山牧水主宰の『創作』などに短歌を発表、生田春月主宰の『詩と人生』、島崎藤村主宰の『處女地』などへの投稿を経て、大正14年(1925年)に『文藝戦線』に発表された「烈日」で作家として評価を受ける。大正15年(1926年)、新居格らが結成した西郊共働社(後の)に参加し、消費組合運動に関わるようになる。昭和3年(1928年)には『女人芸術』に「古鏡」を発表。 昭和8年(1933年)2月、作家の小林多喜二が逮捕され拷問をうけて殺害される。鳥子は多喜二の母親に対する義捐金活動に関わり、治安維持法違反として検挙・投獄される。同年、プロレタリア作家同盟に加盟し、宮本百合子、佐多稲子らと共に『働く婦人』の編集などに従事する。 昭和12年(1937年)、46歳で死去。死因については、睡眠薬の飲用過多、心臓麻痺および喘息、脳溢血、倒れて顔を打ってそのまま亡くなったなど諸説ある。 翌年、遺稿集『帰郷』が刊行される。また、古河市に文学碑がある。 (ja)
  • 若杉 鳥子(わかすぎ とりこ、1892年(明治25年)12月25日 - 1937年(昭和12年)12月18日)は、日本の小説家、歌人。 古河の豪商と神田のの女中の庶子として、東京下谷に生まれる。間もなく古河の芸者置屋の若杉はなの養女となる。養家から里子に出され、古河高等小学校を卒業。12歳の頃から『女子文壇』『文章世界』などに投稿を始め、横瀬夜雨に師事する。家業を厭い、明治40年(1907年)に上京、中央新聞の記者となる。 投稿仲間の水野仙子、今井邦子らと知り合い、19歳でと結婚。勝忠は備中高梁城主の板倉勝弼の庶子で、鳥子は「子爵令弟夫人」となる。大正6年(1917年)には長女を伝染病で失う。 若山牧水主宰の『創作』などに短歌を発表、生田春月主宰の『詩と人生』、島崎藤村主宰の『處女地』などへの投稿を経て、大正14年(1925年)に『文藝戦線』に発表された「烈日」で作家として評価を受ける。大正15年(1926年)、新居格らが結成した西郊共働社(後の)に参加し、消費組合運動に関わるようになる。昭和3年(1928年)には『女人芸術』に「古鏡」を発表。 昭和8年(1933年)2月、作家の小林多喜二が逮捕され拷問をうけて殺害される。鳥子は多喜二の母親に対する義捐金活動に関わり、治安維持法違反として検挙・投獄される。同年、プロレタリア作家同盟に加盟し、宮本百合子、佐多稲子らと共に『働く婦人』の編集などに従事する。 昭和12年(1937年)、46歳で死去。死因については、睡眠薬の飲用過多、心臓麻痺および喘息、脳溢血、倒れて顔を打ってそのまま亡くなったなど諸説ある。 翌年、遺稿集『帰郷』が刊行される。また、古河市に文学碑がある。 (ja)
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  • 若杉 鳥子(わかすぎ とりこ、1892年(明治25年)12月25日 - 1937年(昭和12年)12月18日)は、日本の小説家、歌人。 古河の豪商と神田のの女中の庶子として、東京下谷に生まれる。間もなく古河の芸者置屋の若杉はなの養女となる。養家から里子に出され、古河高等小学校を卒業。12歳の頃から『女子文壇』『文章世界』などに投稿を始め、横瀬夜雨に師事する。家業を厭い、明治40年(1907年)に上京、中央新聞の記者となる。 投稿仲間の水野仙子、今井邦子らと知り合い、19歳でと結婚。勝忠は備中高梁城主の板倉勝弼の庶子で、鳥子は「子爵令弟夫人」となる。大正6年(1917年)には長女を伝染病で失う。 若山牧水主宰の『創作』などに短歌を発表、生田春月主宰の『詩と人生』、島崎藤村主宰の『處女地』などへの投稿を経て、大正14年(1925年)に『文藝戦線』に発表された「烈日」で作家として評価を受ける。大正15年(1926年)、新居格らが結成した西郊共働社(後の)に参加し、消費組合運動に関わるようになる。昭和3年(1928年)には『女人芸術』に「古鏡」を発表。 昭和12年(1937年)、46歳で死去。死因については、睡眠薬の飲用過多、心臓麻痺および喘息、脳溢血、倒れて顔を打ってそのまま亡くなったなど諸説ある。 翌年、遺稿集『帰郷』が刊行される。また、古河市に文学碑がある。 (ja)
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