肝付 兼演(きもつき かねひろ)は、戦国時代の武将。大隅国加治木城主。 兼演の家系は肝付氏本家12代・兼忠の三男・兼光を祖とする肝付氏庶流で、島津勝久の家老を務めた。大永6年(1526年)11月に勝久が島津貴久に家督を譲った際に、兼演は越前守に任じられ、そのまま貴久に仕えた。天文3年(1534年)、貴久の実父・島津忠良に辺川・加治木・木ノ内・中ノ州などの領地を与えられてより、それまでの本貫地であった大隅溝辺から加治木に拠点を移した(大永7年(1527年)説あり)。 天文6年(1537年)、兼演は薩州家当主・島津実久の調略に応じ、一転して貴久に敵対する。これに貴久は、天文11年(1542年)に北原氏庶流の北原兼孝の助勢を得て加治木に攻め込むが、兼演はこれを退却させた。貴久は次に、天文18年(1549年)5月に伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの軍勢を遣わした。これに蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が兼演の助勢に駆けつけ対陣するも、11月に伊集院忠朗の子・忠倉の火計により陣を乱され敗退、兼演は北郷氏を通じて翌年貴久に降伏した。しかし、翌年に加治木の領有は安堵される。 天文21年(1552年)に死去。享年55。嫡男・兼盛が後を継いだ。

Property Value
dbo:abstract
  • 肝付 兼演(きもつき かねひろ)は、戦国時代の武将。大隅国加治木城主。 兼演の家系は肝付氏本家12代・兼忠の三男・兼光を祖とする肝付氏庶流で、島津勝久の家老を務めた。大永6年(1526年)11月に勝久が島津貴久に家督を譲った際に、兼演は越前守に任じられ、そのまま貴久に仕えた。天文3年(1534年)、貴久の実父・島津忠良に辺川・加治木・木ノ内・中ノ州などの領地を与えられてより、それまでの本貫地であった大隅溝辺から加治木に拠点を移した(大永7年(1527年)説あり)。 天文6年(1537年)、兼演は薩州家当主・島津実久の調略に応じ、一転して貴久に敵対する。これに貴久は、天文11年(1542年)に北原氏庶流の北原兼孝の助勢を得て加治木に攻め込むが、兼演はこれを退却させた。貴久は次に、天文18年(1549年)5月に伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの軍勢を遣わした。これに蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が兼演の助勢に駆けつけ対陣するも、11月に伊集院忠朗の子・忠倉の火計により陣を乱され敗退、兼演は北郷氏を通じて翌年貴久に降伏した。しかし、翌年に加治木の領有は安堵される。 天文21年(1552年)に死去。享年55。嫡男・兼盛が後を継いだ。 (ja)
  • 肝付 兼演(きもつき かねひろ)は、戦国時代の武将。大隅国加治木城主。 兼演の家系は肝付氏本家12代・兼忠の三男・兼光を祖とする肝付氏庶流で、島津勝久の家老を務めた。大永6年(1526年)11月に勝久が島津貴久に家督を譲った際に、兼演は越前守に任じられ、そのまま貴久に仕えた。天文3年(1534年)、貴久の実父・島津忠良に辺川・加治木・木ノ内・中ノ州などの領地を与えられてより、それまでの本貫地であった大隅溝辺から加治木に拠点を移した(大永7年(1527年)説あり)。 天文6年(1537年)、兼演は薩州家当主・島津実久の調略に応じ、一転して貴久に敵対する。これに貴久は、天文11年(1542年)に北原氏庶流の北原兼孝の助勢を得て加治木に攻め込むが、兼演はこれを退却させた。貴久は次に、天文18年(1549年)5月に伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの軍勢を遣わした。これに蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が兼演の助勢に駆けつけ対陣するも、11月に伊集院忠朗の子・忠倉の火計により陣を乱され敗退、兼演は北郷氏を通じて翌年貴久に降伏した。しかし、翌年に加治木の領有は安堵される。 天文21年(1552年)に死去。享年55。嫡男・兼盛が後を継いだ。 (ja)
dbo:alias
  • 兼演→以安斎(号) (ja)
  • 存庭兼祐居士 (ja)
  • 通称:三郎五郎 (ja)
  • 兼演→以安斎(号) (ja)
  • 存庭兼祐居士 (ja)
  • 通称:三郎五郎 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 2922237 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1490 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 92336252 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-ja:wikiPageUsesTemplate
prop-ja:主君
prop-ja:兄弟
  • 兼演、兼利 (ja)
  • 兼演、兼利 (ja)
prop-ja:別名
  • 通称:三郎五郎 (ja)
  • 通称:三郎五郎 (ja)
prop-ja:
prop-ja:
  • 兼盛 (ja)
  • 兼盛 (ja)
prop-ja:官位
  • 越前守 (ja)
  • 越前守 (ja)
prop-ja:戒名
  • 存庭兼祐居士 (ja)
  • 存庭兼祐居士 (ja)
prop-ja:改名
  • 兼演→以安斎(号) (ja)
  • 兼演→以安斎(号) (ja)
prop-ja:時代
prop-ja:死没
  • 0001-07-04 (xsd:gMonthDay)
prop-ja:氏名
  • 肝付兼演 (ja)
  • 肝付兼演 (ja)
prop-ja:氏族
prop-ja:父母
  • 父:肝付兼固 (ja)
  • 父:肝付兼固 (ja)
prop-ja:生誕
  • 明応7年(1498年) (ja)
  • 明応7年(1498年) (ja)
dct:subject
rdf:type
rdfs:comment
  • 肝付 兼演(きもつき かねひろ)は、戦国時代の武将。大隅国加治木城主。 兼演の家系は肝付氏本家12代・兼忠の三男・兼光を祖とする肝付氏庶流で、島津勝久の家老を務めた。大永6年(1526年)11月に勝久が島津貴久に家督を譲った際に、兼演は越前守に任じられ、そのまま貴久に仕えた。天文3年(1534年)、貴久の実父・島津忠良に辺川・加治木・木ノ内・中ノ州などの領地を与えられてより、それまでの本貫地であった大隅溝辺から加治木に拠点を移した(大永7年(1527年)説あり)。 天文6年(1537年)、兼演は薩州家当主・島津実久の調略に応じ、一転して貴久に敵対する。これに貴久は、天文11年(1542年)に北原氏庶流の北原兼孝の助勢を得て加治木に攻め込むが、兼演はこれを退却させた。貴久は次に、天文18年(1549年)5月に伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの軍勢を遣わした。これに蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が兼演の助勢に駆けつけ対陣するも、11月に伊集院忠朗の子・忠倉の火計により陣を乱され敗退、兼演は北郷氏を通じて翌年貴久に降伏した。しかし、翌年に加治木の領有は安堵される。 天文21年(1552年)に死去。享年55。嫡男・兼盛が後を継いだ。 (ja)
  • 肝付 兼演(きもつき かねひろ)は、戦国時代の武将。大隅国加治木城主。 兼演の家系は肝付氏本家12代・兼忠の三男・兼光を祖とする肝付氏庶流で、島津勝久の家老を務めた。大永6年(1526年)11月に勝久が島津貴久に家督を譲った際に、兼演は越前守に任じられ、そのまま貴久に仕えた。天文3年(1534年)、貴久の実父・島津忠良に辺川・加治木・木ノ内・中ノ州などの領地を与えられてより、それまでの本貫地であった大隅溝辺から加治木に拠点を移した(大永7年(1527年)説あり)。 天文6年(1537年)、兼演は薩州家当主・島津実久の調略に応じ、一転して貴久に敵対する。これに貴久は、天文11年(1542年)に北原氏庶流の北原兼孝の助勢を得て加治木に攻め込むが、兼演はこれを退却させた。貴久は次に、天文18年(1549年)5月に伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの軍勢を遣わした。これに蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が兼演の助勢に駆けつけ対陣するも、11月に伊集院忠朗の子・忠倉の火計により陣を乱され敗退、兼演は北郷氏を通じて翌年貴久に降伏した。しかし、翌年に加治木の領有は安堵される。 天文21年(1552年)に死去。享年55。嫡男・兼盛が後を継いだ。 (ja)
rdfs:label
  • 肝付兼演 (ja)
  • 肝付兼演 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
foaf:name
  • 肝付兼演 (ja)
  • 肝付兼演 (ja)
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of