稲葉 通照(いなば みちてる、慶長10年(1605年) - 明暦2年6月10日(1656年7月21日))は江戸時代の旗本。豊後国内の領主で改易となった稲葉通孝の長男。幼名鋳法師(かなほうし)。通称十左衛門。子に、、室、室、室。 父の通孝が没したのち、叔父の稲葉典通のもとに居り、のちに京に住む。通照は寛永元年(1614年)に幕府に召し出され、書院番に列し、のちに500俵を給され、そののち小姓組となる。寛永10年2月7日、200石を加増され、それまでの蔵米を知行地に改められ、常陸国鹿島郡内で都合700石となった。寛永17年、職を辞し小普請となる。明暦2年、52歳で没する。法名は徳潤。神田の海禅寺に葬られた。

Property Value
dbo:abstract
  • 稲葉 通照(いなば みちてる、慶長10年(1605年) - 明暦2年6月10日(1656年7月21日))は江戸時代の旗本。豊後国内の領主で改易となった稲葉通孝の長男。幼名鋳法師(かなほうし)。通称十左衛門。子に、、室、室、室。 父の通孝が没したのち、叔父の稲葉典通のもとに居り、のちに京に住む。通照は寛永元年(1614年)に幕府に召し出され、書院番に列し、のちに500俵を給され、そののち小姓組となる。寛永10年2月7日、200石を加増され、それまでの蔵米を知行地に改められ、常陸国鹿島郡内で都合700石となった。寛永17年、職を辞し小普請となる。明暦2年、52歳で没する。法名は徳潤。神田の海禅寺に葬られた。 (ja)
  • 稲葉 通照(いなば みちてる、慶長10年(1605年) - 明暦2年6月10日(1656年7月21日))は江戸時代の旗本。豊後国内の領主で改易となった稲葉通孝の長男。幼名鋳法師(かなほうし)。通称十左衛門。子に、、室、室、室。 父の通孝が没したのち、叔父の稲葉典通のもとに居り、のちに京に住む。通照は寛永元年(1614年)に幕府に召し出され、書院番に列し、のちに500俵を給され、そののち小姓組となる。寛永10年2月7日、200石を加増され、それまでの蔵米を知行地に改められ、常陸国鹿島郡内で都合700石となった。寛永17年、職を辞し小普請となる。明暦2年、52歳で没する。法名は徳潤。神田の海禅寺に葬られた。 (ja)
dbo:wikiPageID
  • 1662257 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 552 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 74501581 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
dct:subject
rdfs:comment
  • 稲葉 通照(いなば みちてる、慶長10年(1605年) - 明暦2年6月10日(1656年7月21日))は江戸時代の旗本。豊後国内の領主で改易となった稲葉通孝の長男。幼名鋳法師(かなほうし)。通称十左衛門。子に、、室、室、室。 父の通孝が没したのち、叔父の稲葉典通のもとに居り、のちに京に住む。通照は寛永元年(1614年)に幕府に召し出され、書院番に列し、のちに500俵を給され、そののち小姓組となる。寛永10年2月7日、200石を加増され、それまでの蔵米を知行地に改められ、常陸国鹿島郡内で都合700石となった。寛永17年、職を辞し小普請となる。明暦2年、52歳で没する。法名は徳潤。神田の海禅寺に葬られた。 (ja)
  • 稲葉 通照(いなば みちてる、慶長10年(1605年) - 明暦2年6月10日(1656年7月21日))は江戸時代の旗本。豊後国内の領主で改易となった稲葉通孝の長男。幼名鋳法師(かなほうし)。通称十左衛門。子に、、室、室、室。 父の通孝が没したのち、叔父の稲葉典通のもとに居り、のちに京に住む。通照は寛永元年(1614年)に幕府に召し出され、書院番に列し、のちに500俵を給され、そののち小姓組となる。寛永10年2月7日、200石を加増され、それまでの蔵米を知行地に改められ、常陸国鹿島郡内で都合700石となった。寛永17年、職を辞し小普請となる。明暦2年、52歳で没する。法名は徳潤。神田の海禅寺に葬られた。 (ja)
rdfs:label
  • 稲葉通照 (ja)
  • 稲葉通照 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:isPrimaryTopicOf
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of