牧野 康道(まきの やすみち、慶安3年(1650年)- 享保5年5月26日(1720年7月1日))は、越後与板藩の第2代藩主。越後長岡藩分家牧野家2代。 初代藩主・牧野康成の長男。正室は水野忠善の娘。子は牧野康澄(長男)。官位は従五位下、遠江守。幼名は新三郎。 明暦3年(1657年)12月晦日に父が死去したため、翌年2月27日に9歳で跡を継いだ。寛文4年(1664年)4月5日、幕府から朱印状を賜る。本家の長岡藩主牧野忠成は、分家の与板藩牧野家の朱印状拝領に反対しており、両家の間の確執を生むことになった。同年12月28日、従五位下、遠江守に叙任する。寛文8年(1668年)2月、牧野忠成と姉が離婚し、両家は義絶することになる。元禄2年(1689年)7月3日、隠居し、養子康重に家督を譲った。隠居後、覚翁と号す。享保5年(1720年)5月26日、71歳で死去した。法号は浩徳院冷誉一山覚翁。墓所は東京都小金井市前原町の幡随院。

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  • 牧野 康道(まきの やすみち、慶安3年(1650年)- 享保5年5月26日(1720年7月1日))は、越後与板藩の第2代藩主。越後長岡藩分家牧野家2代。 初代藩主・牧野康成の長男。正室は水野忠善の娘。子は牧野康澄(長男)。官位は従五位下、遠江守。幼名は新三郎。 明暦3年(1657年)12月晦日に父が死去したため、翌年2月27日に9歳で跡を継いだ。寛文4年(1664年)4月5日、幕府から朱印状を賜る。本家の長岡藩主牧野忠成は、分家の与板藩牧野家の朱印状拝領に反対しており、両家の間の確執を生むことになった。同年12月28日、従五位下、遠江守に叙任する。寛文8年(1668年)2月、牧野忠成と姉が離婚し、両家は義絶することになる。元禄2年(1689年)7月3日、隠居し、養子康重に家督を譲った。隠居後、覚翁と号す。享保5年(1720年)5月26日、71歳で死去した。法号は浩徳院冷誉一山覚翁。墓所は東京都小金井市前原町の幡随院。 (ja)
  • 牧野 康道(まきの やすみち、慶安3年(1650年)- 享保5年5月26日(1720年7月1日))は、越後与板藩の第2代藩主。越後長岡藩分家牧野家2代。 初代藩主・牧野康成の長男。正室は水野忠善の娘。子は牧野康澄(長男)。官位は従五位下、遠江守。幼名は新三郎。 明暦3年(1657年)12月晦日に父が死去したため、翌年2月27日に9歳で跡を継いだ。寛文4年(1664年)4月5日、幕府から朱印状を賜る。本家の長岡藩主牧野忠成は、分家の与板藩牧野家の朱印状拝領に反対しており、両家の間の確執を生むことになった。同年12月28日、従五位下、遠江守に叙任する。寛文8年(1668年)2月、牧野忠成と姉が離婚し、両家は義絶することになる。元禄2年(1689年)7月3日、隠居し、養子康重に家督を譲った。隠居後、覚翁と号す。享保5年(1720年)5月26日、71歳で死去した。法号は浩徳院冷誉一山覚翁。墓所は東京都小金井市前原町の幡随院。 (ja)
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  • 牧野 康道(まきの やすみち、慶安3年(1650年)- 享保5年5月26日(1720年7月1日))は、越後与板藩の第2代藩主。越後長岡藩分家牧野家2代。 初代藩主・牧野康成の長男。正室は水野忠善の娘。子は牧野康澄(長男)。官位は従五位下、遠江守。幼名は新三郎。 明暦3年(1657年)12月晦日に父が死去したため、翌年2月27日に9歳で跡を継いだ。寛文4年(1664年)4月5日、幕府から朱印状を賜る。本家の長岡藩主牧野忠成は、分家の与板藩牧野家の朱印状拝領に反対しており、両家の間の確執を生むことになった。同年12月28日、従五位下、遠江守に叙任する。寛文8年(1668年)2月、牧野忠成と姉が離婚し、両家は義絶することになる。元禄2年(1689年)7月3日、隠居し、養子康重に家督を譲った。隠居後、覚翁と号す。享保5年(1720年)5月26日、71歳で死去した。法号は浩徳院冷誉一山覚翁。墓所は東京都小金井市前原町の幡随院。 (ja)
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  • 牧野康道 (ja)
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